🗓 2023年05月20日
吉海 直人
NHKの朝ドラが、四月から「らんまん」に変わりましたね。これは植物分類学者の牧野富太郎博士をモデルとしたものです。牧野は小学校中退でありながら、東京大学の助手として採用され、日本に自生している植物を探し回り、多くの新種を発見・報告した人でした。仙台で発見した笹の新種に、奥さんの名前をとってスエコザサ(学名ササエラ・スエコアナ・マキノ)と名付けた話は有名です。
私は植物に因むコラムをたくさん書いているので、牧野の『日本植物図鑑』にはお世話になっています。それだけではありません。専門の百人一首においても、衝撃的なことがありました。それは伊勢の「難波潟短き葦の節の間も」という歌にまつわるものです。たいていの百人一首の解説本では、「葦の節の間は短い」と説明されていますよね。「日本国語大辞典第二版」でも、「葦の節と節との間が短いことを、時間の短いのにたとえていう」と解説されています。ですからみなさんも学校でもそのように習ったのではないでしょうか。
私も最初はそれで何の問題もないと思っていました。それが常識の落とし穴だったのです。ところが牧野は、「節があるが節間は長い」(『牧野新日本植物図鑑』北隆館・昭和36年)と、まったく反対のことを述べていたのです。専門家である牧野の説明が正しいとすると、これまでの百人一首の説明はすべて間違っていたことになります。こんな間違いが今まで気づかないまま何百年も放置されていたことになります。
これについては、マンガ「ちはやふる」の著者末次由紀さんもツイッターで、
とコメントを寄せています。おそらく私たちは葦を調べることもせず、「短き葦の節の間」と詠まれていることをそのまま信じ、葦の節の間は短いものだと妄信してしまったのかもしれませんね。
ついでにもう一つ、これまであまり考えてみなかったことがあります。それは「短き」がどこにかかるかということです。普通は「節の間」にかけているようですが、「葦」にかかってもおかしくはありません。もっとも「節の間」が短ければ葦の背丈も低いはずです。どうやら「短き葦の節の間」という言い方は、伊勢が初めて詠み出したもののようです。
長いか短いかは正反対ですが、考えるべきことはまだあります。たとえば牧野のいう「節間は長い」は、同じイネ科の中でのことですから、相対的な長さということになります。あるいは本来長いはずの葦の茎がまだ短い時、例えば春の新芽とか、晩秋に刈り取った後に生えた又生といった、季節的な条件を考慮することだってできます。というのも、家集によれば「秋ごろ、うたて人の物いひけるに」という詞書がついているからです。秋なら一度刈り取られた葦の丈はかなり低いし、当然節の間も短くなります。定家の息子である為家の詠んだ「夏刈りの葦の古根の又はへに短くたまる冬の白雪」(『夫木和歌集』)歌も参考になりそうです。
何故こんなややこしい問題があるのでしょうか。それは伊勢の歌の技巧に起因しているようです。というのも、「節」の縁語として「よ」が用いられているからです。「よ」というのは節と節の間を指す言葉です。この二つの縁語が掛詞をも兼ねています。「節」は「臥し」ですよね。ここでは男女が共寝することを意味しています。「よ」にしても人事としての「世」が掛けられているわけですが、そこにもう一つ「夜」も掛けられていると思われます。昼間だけでなく夜も逢えないということです。
ここから先は私の妄想になりますが、そもそも秋は夜長ですよね。ですから男が訪れてくれれば、長い夜を一緒に過ごせることになります。ところが男が来なかったら、女は長い時間を独りで悲しく過ごさなければなりません。伊勢が「短い節の間」といっているのは、短い時間でさえもあなたと過ごすことはできず、私はこうして長い夜の時間を独り寂しく過ごしていますと男に訴えているのではないでしょうか。
どうやらこの歌は「短き」の解釈がネックのようです。だからこそ定家は、伊勢の歌の斬新さと技巧の見事さを高く評価して、百人一首に撰入しているのではないでしょうか。