🗓 2024年03月02日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

「通ひ小町」といっても、小町がどこかに通っていたわけではありません。平安時代は男性が通って来る「通い婚」だったので、女性は男性が訪れるのをじっと待つ身だったからです。では一体誰が小町のところに通ってきたのでしょうか。
 残念ながらその質問に明確には答えられません。何故なら、史実としてきちんとした資料が残っているわけではないからです。むしろ資料的に厳密にいうと、小町は誰とも結婚していないことになります。強いていうなら、仁明天皇の更衣小野吉子だったという説があげられます。ただこれだと天皇の後宮に入内しているわけですから、逆に複数の男性との艶聞などありえないことになります。
 ということで、小町の恋は事実というより小町の詠んだ恋歌をもとにした説話・伝承の世界ということになりそうです。そうなった途端、在原業平や僧正遍昭など同時代の男性の名前が上がってきます。話を「通い小町」に戻すと、すべての男性が小町のもとに通ってくるわけですから、一人に特定することなどできるはずもありません。むしろ通ってきたけれども小町に逢えなかった(逢ってもらえなかった)男性ということが浮上してきます。そういえば六歌仙の一人である文屋康秀も小町に振られた一人でした。
 ただ振られただけでは面白くありません。律儀に九十九夜も通ったのに、その直後に亡くなったという伝説を有する深草少将という男性に焦点を絞ってみましょう。もっとも深草少将というのは、いわゆる官職名ですから、本名は何という人なのか気になりますね。しかしこれも説話上の人物であって、実在しているわけではなさそうです。
 そもそもこの話の出典は、そんなに古くまで遡れるものではありません。室町時代に作られた「四位少将」という能(謡曲)が起源とされています。この能の作者ははっきりしておらす、観阿弥作とも世阿弥作ともされています。その「四位少将」こそは「深草少将」のことなのです。
 あらすじは、美しい小町を見初めた深草少将が思いを告げると、小町は百夜徒歩で私のところに通えば、あなたの誠意を認めて逢ってもいいという難題を課しました。そこで少将は毎晩、雨の日も風の日も小町の住んでいた小野(随心院?)まで通い続けました。しかしながら、あと一日で満願という九十九日目に亡くなってしまうという悲しいお話です。その日は大雪で寒かったとも、流行り病(疱瘡)を患ったからともいわれています。
 それを芸能に仕立てたのが随心院に伝わる「はねず踊り」でした。それによると、九十九日目は大雪だったので、少将はこっそり代理の男をたてて通わせました。小町は九十九日で十分誠意がわかったということで、その男を邸に導き入れたところ、別人であることがばれてしまい、破談になったという滑稽譚になっています。ちょっと近代的脚色(パロディ)が入っているようですね。
 話の内容からすると男性が主人公ですが、後に小町に重きが置かれるようになって、タイトルが「深草少将」から「通ひ小町」に改名されました(七小町の一つになります)。また「深草少将」という名前から、伏見の深草に住んでいるという安直な想定が行われ、現在伏見区にある曹洞宗の欣浄寺ごんじょうじが、「深草少将」の住居跡に比定されています。このお寺には、伏見大仏と称されている丈六の廬舎那仏が安置されています。また境内には、深草少将ゆかりの少将塚・少将姿見の井戸(墨染井)だけでなく、何故か小町塚・小町姿見の池まであります。
 なおこの井戸は、別に「涙の水」ともいわれていますが、それは昭和四年に西條八十が作詞した「伏見小唄」(中山晋平作曲)に、

通ふ深草百夜の情小町恋しの涙の水が今も湧きます欣浄寺

とあることによります。また堂内には深草少将貼文像もあります。これは小町に贈った少将の恋文を貼って作ったものとされています。さらに少将の通い道(竹の下道)というのもありますが、なにしろ願いが成就しなかったのですから、訴訟や願い事がある人は決してその道を通ってはいけないという言い伝えまであるそうです。室町の謡曲からこれだけのものが作り出されたわけです。

もちろん深草少将は、誠実に通ったのに遂に逢えなかったということで、かえって名声を博しているということもできます。一方の小町は、こんな誠実な少将を受け入れなかったことで後世の人々の反感を買い、小町不具説が叫ばれたり、その後零落して地方をさまよう話が醸成されたのかもしれません。