🗓 2024年03月09日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

今回は和泉式部ですが、最初に質問です。みなさんは、

恋しくは尋ね来てみよ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉

という歌を知っていますか。芸能好きの人ならすぐに竹田出雲作の浄瑠璃『蘆屋道満大内鑑』の「葛の葉子別れ」の段と答えるでしょう。この浄瑠璃は、安倍保名と信太の森に棲む白狐の異類婚で、その間に生まれた童子丸が、成長して陰陽師の安倍清明になるというものです。

もともと狐は、稲荷大明神の使いとされていました。そのためこの話が歌舞伎などで有名になると、その名称が転用されていきます。たとえばみなさんは「志乃多寿司」をご存じでしょうか。これは東京でもっとも古いとされる稲荷寿司専門店の屋号です。
 の名称は油揚げのことを、信太の森の葛の葉にちなんで「しのだ」と呼ぶようになったことに起因しています。関西では、きつねうどんのことを「しのだ」とも称したそうです。要するに稲荷寿司を「しのだ」と呼んだことから、「志乃多寿司」が誕生したわけです。
 てここで取り上げたいのは、油揚げのことではありません。最初にあげた「恋しくは」の歌は『古今集』にある、

我が庵は三輪の山本恋しくはとぶらひ来ませ杉立てる門(982番)

を踏まえていると思われます。それだけではなく『新古今集』にある赤染衛門と和泉式部の贈答、

和泉式部、道貞に忘られて後、程なく敦道親王通ふと聞きて遣はしける 赤染衛門
 うつろはでしばし信太の森を見よかへりもぞする葛のうら風(1820番)
   返し 式部
 秋風はすごく吹くとも葛の葉のうらみ顔には見えじとぞ思ふ(1821番)

も踏まえられているようなので、この贈答についてもう少し詳しく見てみましょう。

何故、赤染衛門が和泉式部に「信太の森」と歌いかけたかおわかりですか。はい、「信太の森」は和泉にありましたね。では何故和泉式部は「和泉」式部と呼ばれているのでしょうか。それは、最初に結婚した橘道貞が和泉守(受領)だったからです。和泉守の妻だから和泉式部なのです(式部は父である大江雅致の式部丞から)。「道貞に忘れられて」とは、道貞と離縁状態になったことを意味します。『赤染衛門集』では「道貞と仲違ひて」とあります。面白いのは離縁になった後も、彼女は生涯和泉式部と呼ばれ続けていることです。
 それはさておき、和泉式部のもとへ高貴な敦道親王が通ってきます。その顛末を書いたのが『和泉式部日記』です。最初は敦道親王の兄である為尊親王が通っていました。その為尊親王が若くして亡くなられた後、今度は弟の敦道親王が通うようになったのです。そこで赤染衛門は、他の男に気を移さないで、葛の裏葉が返るようにもうしばらく夫の道貞の帰りを待ったらどうですかと詠みかけます。
 れに対して和泉式部は、私は夫に飽きられたとしても決して恨んだりしませんと、きっぱり答えています。「秋風」というのは「飽き」つまり夫に飽きられ捨てられたという掛詞です。また「葛の葉の裏」が「恨み顔」の掛詞になっています。見事な技巧ですね。
 これが何故、信太妻伝説のもとになっているかというと、この歌以前に「葛の葉」を詠んだ歌が見当たらないからです。要するに「信太の森のうらみ葛の葉」は、赤染衛門と和泉式部の贈答がもとになってできているのです。その証拠はもう一つあげられます。それは信太の森を詠んだもっとも古い歌として、

和泉なる信太の森の楠の木の千枝に分かれて物をこそ思へ(古今六帖1049番)

があげられることです。これによれば、もともと歌枕「信太の森」に植わっていたのは楠木であり葛ではなかったことがわかります。

それがどうして葛になったのか、もうおわかりですよね。「楠」と「葛」は清濁の違いこそありますが、どちらも「くす」と表記していたので、簡単に入れ替わることができたのです。これはおそらく赤染衛門が、和泉式部の「和泉」にひっかけて、言語遊戯を仕掛けたのではないでしょうか。その赤染衛門にしても、まさか後世に信太妻伝説が醸成されるとは思ってもみなかったことでしょう。