🗓 2024年11月23日

吉海 直人

みなさんは「タイタニック」の映画を御覧になりましたか。主演のレオナルド・ディカプリオを含めて、大変評判が良かったようですから、かなりの人が映画館で涙を流したのではないでしょうか。特に船が沈没しかけた時、船の専属楽団のメンバー達が最後まで演奏し続けるシーンは印象的でしたね。そしてもういよいよ沈没というクライマックスで、彼らは既に死を覚悟して讃美歌を演奏します。それは有名な讃美歌でした。
 話は変わりますが、みなさんは宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』をご存じですよね。これも非常に有名なので、小さい時に読んだという人が多いと思います。この作品は単なる童話・ファンタジーというより、さまざまな要素が混ぜ合わされている点に特徴があります。ですから、とても子供には理解できそうもない作品だと思っています。
 例えば『銀河鉄道の夜』には、「ツウィンクル、ツウィンクル、リトル、スター」という「きらきら星」の一節が出てきます。マザーグースに関しては、大正10年に北原白秋がはじめて日本語訳を出版しています。ただし白秋の本には「きらきら星」が掲載されていないので、賢治は原書から引用したようです(『不思議の国のアリス』にも引用されています)。いずれにしても賢治は、当時ようやく日本語訳が出版されるくらいの舶来の知識を、早々と自分の作品に取り込んでいたのです。
 そんな中に、次のような一文があります。

船が氷山にぶっつかって一ぺんに傾き、もう沈みかけました。月のあかりはどこかぼんやりありましたが、霧が非常に深かったのです。ところがボートは左舷の方半分はもうだめになっていましたから、とてもみんなは乗りきれないのです。もうそのうちにも船は沈みますし、私は必死となって、どうか小さな人たちを乗せてくださいと叫びました。

これは、幼い姉弟を連れて途中から列車に乗り込んできた青年の身の上話の中の一節です。氷山にぶつかったとあるところで、すぐにタイタニック号の事件を思い浮かべました。もっとも作品の中に「タイタニック」という言葉は全く使われていませんし、デ・アミーチスが書いた『クオレ』所収の「難破船」がモデルだともいわれています。しかしタイタニック事件は明治45年(大正元年)に起こっているので、時間的には齟齬しません。これが「推量」から「確信」に変わるのは、すぐ後の一節を見た時でした。
 私は一生けん命で甲板の格子になったところをはなして、三人それにしっかりとりつきました。どこからともなく三〇六番の声があがりました。たちまちみんなはいろいろな国語で一ぺんにそれを歌いました。
 「三〇六番」というのは、もちろん讃美歌の番号です。この讃美歌306番が映画で流れていた曲と一致すれば、すべては解決することになります。ところが、現在皆さんが使っている讃美歌の306番は、残念なことに曲が違っていました。もしかしたら『銀河鉄道の夜』とタイタニックは一致しないのかな、と少し不安になりましたが、いや賢治の見た讃美歌が今の本とは違っているのではないかと思い直して、古い讃美歌にあたってみました。
 明治23年の古い讃美歌を見ると、歌数が少なく三百番台の歌などありませんでした。そこで大正8年の増補改訂版を見ると、かなり曲が増補されていましたが、やはり違っていました。次に昭和6年刊行の讃美歌を調べたところ、ようやく探していた曲にめぐりあったのです。この本にある306番こそが、映画タイタニックで流れていた讃美歌でした。現行の本(昭和29年以降)では320番になっています。それが「主よみもとに近づかん」(ニアラー・マイゴット・ツージー)という曲です。これで『銀河鉄道の夜』が引用している沈没船の話は、間違いなくタイタニック号事件をもとにしていることがわかりました。
 おそらく沈没のニュースが世界中に報道され、日本でも有名だったのでしょう。沈没船で讃美歌を演奏するのは決して映画の脚色ではなくて、当時の新聞で報道された事実だったのです。賢治がそのことを知っていたことは、『春と修羅』という詩集の中に「タイタニックの甲板でNearer my Godか何かうたふ」とあることによっても明らかです。
 さて、ここまでは順調に調査が進んだのですが、学問の世界はそんなに甘くありません。実は私は最初、岩波文庫で『銀河鉄道の夜』を見ましたが、賢治の原稿では讃美歌の番号のところが二字分空白になっていることがわかりました。岩波文庫の初版は昭和26年ですから、おそらく曲名から当時の讃美歌番号であった306番が挿入されたのでしょう。この歌番号は決して賢治が書いたのではなく、校訂者が加筆したものだったのです。
 では賢治は何故番号を空白にしたのでしょうか。確かなことはわかりませんが、明治23年版では一六九番、大正8年版では249番だったものが、昭和6年に306番に変更されたこと、また英語版の讃美歌でも番号が異なっているので、賢治自身どの番号にすべきか迷っていたのかもしれません。
 賢治はこのタイタニック事件から、他人を押しのけてまで生きることより、身をひいて神のもとに近づくことに、また死を目前にしながらも讃美歌を演奏し続けたことに感動したのでしょう。賢治の脚色といえば、その讃美歌を乗客が一緒に歌うというところだったようです。