🗓 2020年04月28日
私の友人に伊藤俊也君がいる。彼は塩川町生まれで地元幼馴染の間では「シャン」という愛称で呼ばれている。
渡辺東郊の「攬勝亭図」を見て彼のことを思い出し連絡を取った。彼は言う。「今話題の攬勝亭はどこにあるのか。女房は知っているのだが。」私の家の近くの柳原にあることを伝え、案内することになった。会津3庭園の他の「可月亭」も知らないというので、ついでにそちらも見学することにした。
実は彼は渡辺東郊と非常に縁のある人なのである。彼の父親は会津藩士米野家出身である。毎年秋に開催される「会津まつり」の藩侯行列の藩士隊の一員として参加したこともある。「会津墨客録」に渡辺東郊が掲載されている。その隣に東郊の父渡辺治三衛門光豊の名がある。治三衛門の父親すなわち東郊の祖父が米野伴七久豊なのである。東郊の父は伴七の次男であり渡辺家の養子になったのであろう。ちなみに米野家本家筋には会津若松市制に町野主水と共に反対の嘆願書を出した米野庫がいる。米野庫は会津の明治時代の歴史にたびたび登場する。
伊藤君も系図を見れば米野家につながる。すなわち渡辺東郊の遠戚にあたるのである。
私の家に東郊の書いた「攬勝亭図」があり、知人に東郊の遠戚と知り合いがいた。
早速、「攬勝亭図」に書かれている石碑の前で記念撮影を依頼した。このようなところで歴史は繋がっているのである。実際、ここでは紹介しないが会津には徳川慶喜と勝海舟の子孫もいるのである。