🗓 2025年12月09日
日本の私立大学慶応・同志社・早稲田の変遷と覚馬のつながり等述べました。
長男:慶応、次男:同志社、3男:早稲田
1978年法学部卒 岩澤信千代
慶応4年(明治元年)慶応は福沢諭吉が有馬家(久留米藩)の屋敷を購入し「慶応義塾」を創設した。同志社は新島襄が明治8年(1875年)に同志社英学校を創立した。それから8年後の明治16年(1883年)に大隈重信が東京専門学校を設立した。
大正12年(1913年)に30周年を迎えた早稲田は「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を基本理念とした早稲田大学教旨を大隈重信校閲の後、高らかに宣言した。その草案作成者の一人が大隈の右腕と言われた同志社出身の浮田和民である。
安部球場は「日本野球の父」「学生野球の父」と呼ばれた1899年から在職した同志社出身の安部磯雄から名づけられた。今では東伏見野球場が「安倍磯雄記念野球場」に改称されてその名を遺す。
そして同志社第3代総長になった横井時雄も早稲田で教鞭をとっていた。横井時雄の最初の妻みねは山本覚馬の2女である。戊辰戦後、みねは山本覚馬の生存が確認されるまで新島八重と常に生活を共にしていた。
この横井時雄が福島県安積高校出身の世界的な歴史学者朝河貫一を早稲田で教えかつキリスト教の受洗をしたのである。朝河貫一は早稲田を明治28年(1895年)首席で卒業した。
その後大隈重信や徳富蘇峰や勝海舟の援助を受け米国イエール大学を卒業し、1932年イエール大学日本人初の教授となった。2007年功績を記念してイエール大学構内に「朝河貫一庭園」が造られた。
このように早稲田草創期には同志社英学校の出身者たちが大いに活躍したのである。
これが慶応出身者だったら、今のライバル関係ができたか甚だ疑問である。遠く離れた京都の同志社だから良かった。三田の出身者たちが教鞭をとっていたら植民地扱いで独自の路線を歩めなかったのではないかと安堵する。
そして2025年の今年は同志社150年に当たる。私が幹事長を務める新島八重顕彰会に同志社そして今年の6月14日八重が深く関わった同志社女子大学の前学長に参列頂いた。前夜の懇親会では、「都の西北」のように同志社で歌い継がれてきた「カレッジソング」(英語)を高らかに会津の夜に響かせていただいた。
最後に1871年(明治4年)に、三田(港区三田)の校地を福沢諭吉が国から払下げを受けたが金額は500円であった。同志社の今出川校地は山本覚が500円で譲り渡した。慶応と同志社の校地はいずれも500円で同じである。とすると大隈重信が都の西北の田んぼをなんぼで買ったか気になるところではある。
