🗓 2020年04月04日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

昭和3年5月14日、会津高等女学校4学年の生徒113名は、会津若松から金沢経由で関西方面の修学旅行へと出発した。その折の記録が『松操会誌第4号』に掲載されている。それによれば15日の午後6時43分に京都駅到着、駅前広場で出迎えた新城博士(京大総長)から黒谷の話を聞いたとのことである。翌16日、インクラインの船に乗る予定だったが、あいにく休止中だったので、予定を変更して黒谷に向かった。会津墓地参拝の後、西雲院で茶菓子の接待を受けているところへ、八重がやってきた。その時の様子が2人の生徒によって克明に記録されている。少々長いが以下に紹介しておきたい。

 しばらくすると新島女史が私達のいこうてる前に見えられた。八十四才といふ高齢にもかかはらず、立派な御姿勢を保たれた徒歩にてお出でになられた。私達は一様に緊張した。間もなく女史は会津人会の人々と私達の前にお出でになった。最初会長の代りとして奥田氏より熱烈な黒谷に関した昔の話、ならびに新島女史の御紹介があって、次に女史がにこやかに立たれた。深き慈愛の光に輝く御顔、椅子にも寄られずお立ちなされた貴き御姿、そしてあの幾分ふるひを帯びたあの優しきお声、それ等に対した私達の心は勿体なさ、敬虔さに閉されるのだった。女史は語られた。「人は真といふ一字を何処までも守らねばならぬ」と。又語られた。「人を妬むことは悪い事だ」と、又「美人は心の美しいひとである」と。慈愛に満ちた有難き御訓辞、私達は心から深く深く感じた。女史の訓辞に答ふるもの、それはただ熱い涙であった。御話の後、女史は御胸の宝冠章を見せてくださった。そして親しく私達の方に手をかけられ、涙の下に「どうぞいい子になってね」と言ってくださった。私達は「きっときっといい子になる」と誓はずに居られなかった。昼飯を食べ、新たな親しさを持って再び会津墓地に行き、女史をかこんで記念の撮影をして墓地を出る。(古川キエ記)
 お寺に行って休んでゐると向ふから七十才位の品の良いおばあさんが来られた。ちらとこちらを懐かしげに見られたその人こそ新島八重子女史だったのだ。御老体をもってこの坂道を石段一つ一つ登って来られたのだ。暫くして私達の休んでゐた本堂に出てこられた。かねて女史は八十四才の高齢であると承ってゐたのに、お顔の若々しい事お声のお高く力のあるのに驚かざるを得なかった。柔和な人の持前かの様に圓顔まるがおで目じりに五つも六つも小皺を寄せられながらお話して下さった。「私は元気な皆様にお会してこんなに嬉しい事はありません。それより尚墓地の下では我々同朋がどんなにか喜んでゐる事でせう」とお目に真珠の様な浄い喜びの涙を見た時は、疲れもねむけも何処へやら、いかに私達の胸にこたえたであらう。そちこちに鼻をすする音が聞えた。
 「私は皆様と同じく擂鉢すりばちの様な会津盆地に生れ頑固な父にきつい家庭教育を受けた丈で、当別の教育と云ふものを受けませんでした。私は童子訓によって教育せられたのです」と言はれて、童子訓の一部を暗誦して聞かせられました。十分か十五分もかかったと思はれる程長い長い暗誦を続けれられたので、その御記憶の御強いのに驚きました。それから御話を続けられて、「私は『真を守る』と云ふ事を今まで通して来ました。女はとかくあおの忌むべき嫉妬心の為に真を守るといふ事を破る様な事が起るものです。この嫉妬心は女にとってごく悪い事ですから、お互いのぞく様に心掛けなければなりません。人を嫉妬し合ふと云ふ事はどんなに見苦しい事でせう。女の第一のつつしまねばならない事です。先年日露戦争の当時、私は篤志看護婦として或病院にをりました時、その病院にをられた或将校の方が看護婦に向って『此処には美人がをりますか』とたづねられた。すると誰さんだとかいや誰さんだとかと云ひ合ってゐるのを聞いてゐらっしてその方は、『貴女達は美人といふものを大へん違って考へてゐる。本当の美人と云ふものは姿の美しいのを云ふのではなくて、心の美しいのを真の美人と云ふのだ』と云はれたのを傍から私が聞いて関心しました。皆でこの真の美人になる様に心掛けませう。『心に貯へたる宝は人は取る事は出来ない』といふ事があります。だから皆さんも真を守って良い宝を築き上る様にして下さい。私は勲六等とこの宝冠章を天皇陛下から拝受しましたが、皆さんはもっともっと立派な人になって勲四等位になって下さい。どうぞ皆様は良い人となり日本国の為に盡して下さい。」と涙を浮べ心をこめてのお話、感激せざるを得なかった。女史の御胸には女史の功を無言のまま私達に物語ってゐる宝冠章を有難くも私達は目のあたり拝する事が出来た。
 有難いお話が終ってから紀念の為とて女史を取りまいて写真を取った。先を急ぐ為、名残つきぬ黒谷とお会する事の出来るかどうかの八重子女史にお別れをつげたのでした。嵐山の見物も終り、いよいよ京都を出発して大阪に向はうと汽車に乗込みました時、思ひがけなくも老女史は一人の若き婦人にたすけられながら、わざわざ見送りに来て下さいました。勿体なさに私達一同の目からは涙が溢れ出ました。老女史は背延びをしながらハンカチをふって下さるのがチラチラと白く何時までも何時までも見えました。(穴沢フミ記)