🗓 2020年11月14日
同志社女子大学特任教授
吉海 直人
吉海 直人
蘇峰の語る山本覚馬の続きは以下のようになっている。
爾来京都に於ける病院を建て、学校を設け、舎密局(化学工業局)を置き、其他一切京都府の進歩的経営は、山本の献策に基くもの最も多きにあることは、京都府の歴史がよく之を語って居る。彼は眼病の結果遂に盲目となり、在獄中リユマチスを病み、それが恐らくは原因となって、明治五年頃には蹇(びっこ)となって歩行にも差支るに至った。然し彼は保守的の京都にあって、最も改革の原動力となり、維新以後京都府に於ける各般の新運動に従事したる人物の多くは彼の門下生にして、然らざるも亦彼の感化、彼の示唆、彼の刺激によって出で来りたる者少なからず。彼が肉体的には極めて不完全でありながらも、明治十三年京都府会の創立せらるるや、彼は初代の議長となり、又京都商工会議所の会頭にも挙げられた。
彼が病を養ふて京都に閑居するや、彼の門は殆ど市の如くあった。松方正義は曾て筆者に向って屡々山本覚馬に就て語った。彼曰く、予が大蔵省当局として、一大決心もて健全財政を実行するや、世間一時不景気に陥り天下囂々としてこれを非難したるに係はらず、恐れ多くも上には明治天皇の御聖断あり、而して野にありて、予の政策を支持したる者は、京都府の山本覚馬、熊本県の山田武甫、福島県の佐野利八、三人を先ず数へねばならぬと。
其他松方は、山本が、財政経済の上に於て松方に向って献策したる数点を挙げて、語ったことがある。豈にただ松方のみならんや。当時の大官高僚は、概ね山本をその名誉顧問とした。
彼が病を養ふて京都に閑居するや、彼の門は殆ど市の如くあった。松方正義は曾て筆者に向って屡々山本覚馬に就て語った。彼曰く、予が大蔵省当局として、一大決心もて健全財政を実行するや、世間一時不景気に陥り天下囂々としてこれを非難したるに係はらず、恐れ多くも上には明治天皇の御聖断あり、而して野にありて、予の政策を支持したる者は、京都府の山本覚馬、熊本県の山田武甫、福島県の佐野利八、三人を先ず数へねばならぬと。
其他松方は、山本が、財政経済の上に於て松方に向って献策したる数点を挙げて、語ったことがある。豈にただ松方のみならんや。当時の大官高僚は、概ね山本をその名誉顧問とした。
ここまでが「維新大改革後の山本」で、以下は「山本の家族」である。といっても覚馬の妹八重の話だけであった。
山本の家族 又山本の家族中には、会津籠城の為には、相当努力したる者があった。会津の女性は、維新の際に於いては、日本の花とも云ふ可き者を多く出したが、其の中に数ふ可気は、山本覚馬の妹八重子であった。筆者は、近世日本国民史第七十三冊「会津籠城篇」に於て左の如く揚げて居る。
川崎尚之助の妻八重子は、山本覚馬の妹なり、囲城中に在り、髪を断ち、男子の軍装をなし、銃を執って城壁又城楼より、屡々敵を斃せり。覚馬は西洋砲術を以て名あり、八重子は半生之を兄に学びて練修し、万一の用意を為せしなり。或人婦人の戦に参ずるを諫めたるも、八重子聴かず、進撃ある毎に必ず窃に隊後に加れり。此の日(開戦の日)八重子は、城兵と共に城を出でんとするに当り、和歌を賦し、潸然(涙を流すさま)として涕泣す、人皆同情の感に堪へざりきと云ふ。
明日の夜はいづ子の誰かながむらん、なれし大城にのこす月影
後に八重子は、新島襄に嫁し、九十歳に垂んとするの高齢もて其の天年を終わった。
川崎尚之助の妻八重子は、山本覚馬の妹なり、囲城中に在り、髪を断ち、男子の軍装をなし、銃を執って城壁又城楼より、屡々敵を斃せり。覚馬は西洋砲術を以て名あり、八重子は半生之を兄に学びて練修し、万一の用意を為せしなり。或人婦人の戦に参ずるを諫めたるも、八重子聴かず、進撃ある毎に必ず窃に隊後に加れり。此の日(開戦の日)八重子は、城兵と共に城を出でんとするに当り、和歌を賦し、潸然(涙を流すさま)として涕泣す、人皆同情の感に堪へざりきと云ふ。
明日の夜はいづ子の誰かながむらん、なれし大城にのこす月影
後に八重子は、新島襄に嫁し、九十歳に垂んとするの高齢もて其の天年を終わった。
而して本文の著者は、屡ば同人より会津籠城の物語を聞いたことを今尚ほ記憶してゐる。
以上によって山本覚馬が何者であるか、又山本覚馬の、当時京都に於ける信用と勢力が、如何なる程度であったかを知るに足るものあると信ず。然るに天は偶然にも、新島が自から求めざるも、斯の如き人物を、彼に与へたることは、彼の為にも、亦同志社其ものの為にも寔に天来の幸運であったと云はねばならぬ。因に云ふ、同志社と云ふ名目も、山本が発案したものであると云ふが、或はそれ然らんか。
以上が蘇峰の語る山本覚馬の記事である。なおこの文章は覚馬の葬儀で浜岡光哲(京都実業界の大物、衆議院議員)が読み上げた「山本覚馬略伝」に類似している(『追悼集Ⅰ―同志社人物誌』所収)。あるいはそれも蘇峰が書いた原稿だったのではなかっただろうか。