🗓 2020年11月21日
吉海 直人
眼病を患い失明した覚馬は、それでも自分にできることを精力的に行った。特筆すべきは、薩摩藩邸の牢獄に囚われていた折、口述筆記で「管見」を書き上げたことであろう。人の助けさえあれば、手紙でも文章でも書くことができたのである。
もちろん「管見」は、これまで覚馬が見聞したことをまとめ上げたものである(覚馬も八重も記憶力抜群)。目が見えなくなった後は、どうやら誰かに読んでもらって知識を吸収していたらしい。キリスト教の教えをわかりやすく論述した『天道溯源』(漢文)も、そうやって理解していた。それが新島襄に京都で同志社英学校を設立させる契機となったのである。あるいは西周の『百一新論』も、講義を聞いて体得(暗記)したのかもしれない。
もちろん覚馬の求める知識は、一般人のレベルではないので、読み聞かせる側にもそれなりの知識や教養が必要だったはずである。それは妻の時栄や妹の八重では荷が重かったに違いない。
幸い同志社英学校ができたことで、学生たちがかわるがわる覚馬に読み聞かせをする役に当ったらしい。そのことは当時の学生たちの思い出話の中に登場している。例えば卒業生の中島力蔵(倫理学者、帝大教授)氏は、
私が同志社へ行って居る頃は、山本氏は政治家であった。目が見え無い為、私に新聞を読ませたり、面白い話をしたり、一月に一度は必ず氏の家を訪づれた。意見もよく聞いたが、維新当時の有力の人達と深く交際して居られたので、我々若年者にとって有益の話しを語った。其後、長谷氏が京都知事を辞して槇村〔正直〕氏が代ってから、氏の顧問をして同志社の為めに尽された。相国寺前で社を開く様になったのも山本氏の力であった。
(『創設期の同志社―卒業生たちの回想録』)
と語っている。
次に松尾音次郎(牧師、作家)氏は、
(『創設期の同志社―卒業生たちの回想録』)
と書いており、四年近くも覚馬に聖書を読んでいたことがわかる。それに続いて、
翁は維新前には槍の師範をして居られた。処が維新後、砲術師範となった。それは、槍は唯だ一人しか相手にしないで、鉄砲は大勢のものを同時に相手とするので、武器としては後者が進んで居ると考へたからである。然るに其の後、いよいよ世が進んで来るに従って、砲術などよりももっと広く社会的の貢献をする学問をせねばならぬと考へて、法律、経済を研究して、この方面に於けるオーソリティーとなったのであった。英国のフォーセットに比較せられて、日本のその人を以て許された。
然るに其の後、経済を以てのみでは国民が治まるものではないと云ふ事を考へられて居た際に、新島先生が帰朝せられて勝安房に遇ひ、其の紹介で山本覚馬翁に遇はれる様になった。勿論新島先生は熱心の方故、伝道せられて遂に信者とせられたのである。
一体、新島先生は同志社を大坂に起さんと云ふ考へを抱いて居られた。処が山本翁は京都に置くと云ふ考をもたれて、種々奔走の結果京都に定められたのである。今の同志社の敷地も山本翁の世話で、極く廉価に手に入れたと云ふ事である。
(『創設期の同志社―卒業生たちの回想録』)
と書かれていた。また葛岡龍吉(作家)は、講演の際の覚馬について、
明治幾年であったか、同志社の十年記念式をした時に出て来られて、生徒に講演をせられた。其の時は新島先生の講話と並びて、生徒一同に非常な感動を与へられたものである。
十年記の時もそうである。籠は昔の山籠の様なもので、上の棒を抜くと、屋根と、前と両側の垂れとがそっくりと取りはずされて、残るものは坐して居る処と、後のもたれる処と丈けで、恰も今の一森式の椅子の様な形になるのである。其処で其のまま話をせられた。勿論同氏は盲目で、それに脚が不自由であったからである。
十年記の時の講話に、初めて蘭学をせられた苦心談をせられ、皆なを激励せられた。西周等と同じ学友の間柄であった。西周は心理学を翻訳したので名高い人である。
と語っている。講演のために籠に乗って会場にきたという話は貴重であろう。同志社英学校の学生が見た山本覚馬像も貴重な資料であろう。