🗓 2020年12月26日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

『同志社同窓会125年の歩み』(同志社女子大学)によれば、八重が亡くなった翌年の昭和8年6月14日に、同志社女子専門学校主催で「新島八重子刀自一周年記念会」が開催されている。また昭和17年9月には、女子専門学校の卒業式当日に「八重夫人永眠十年記念会」が催されている。おそらくそれまでは毎年記念会が開催されていたのであろう。しかしそれ以降、第二次世界大戦の影響もあって、記念会が続けられたことを示す資料はどこにも見当たらない。
 まして女学校と違って、同志社大学の男性達における八重の評判は、決して芳しいものではなかった。という以上に、マイナスイメージの方が強かった。新島襄を信奉する人ほど八重に手厳しく、悪妻・浪費家などまるで疫病神のような扱われ方であった。それは現在もたいして変わってはいない。だから八重の篤志看護婦としての活躍も、同志社の歴史とは無関係なものとされてきた。当然、同志社と会津若松との繫がりも希薄なものでしかなかった。そのため同志社大学出身の福本武久氏によって八重の小説が出版されたのは、八重が亡くなって50年以上も経ってからであった。大河ドラマ「八重の桜」によって八重に注目が集まっても、信頼できる八重の伝記は未だ書かれてはいない。これが現実である。
 もっとも「八重の桜」のお蔭で、6月14日に墓前礼拝が行われたが、それもドラマ終了後に久しからずして開催されなくなった。このまま八重のことは忘れ去られるのかと思っていたところ、会津若松において新島八重顕彰会が設立された。そして令和2年6月14日、新型コロナウィルス禍の中、大龍寺で厳かに第一回新島八重顕彰祭が挙行された。八重はクリスチャンだったので、覚馬・八重兄妹の仏式法要とキリスト教式祈祷会が同時に開催された。この顕彰祭が長く続くことを願わずにはいられない。
最後に、「八重の桜」絡みで述べておきたいことがある。実は八重の詠んだ和歌34首の中に、桜の歌も梅の歌も見あたらないということである。歌から言えば、八重は梅とも桜とも無縁だった(誕生日は冬)。それにもかかわらず、NHKテレビの歴史秘話ヒストリア「日本悪妻伝説初代〝ハンサム・ウーマン″新島八重の生涯」のエンディングで、

めづらしと誰か見ざらん世の中の春にさきだつ梅の初花

という歌が詠みあげられたことで、これを八重の詠んだ和歌と誤解した人がたくさんいたようだ。しかしながらこの歌は、安中(群馬県)出身の歌人湯浅半月が詠んだ歌だった。

もっとも寒梅の漢詩を作っている新島襄とのかかわりからすれば、梅の方が桜よりずっと八重にふさわしいといえる。その証拠に、新島旧邸に梅はあったが、桜は植えられていなかった。ところが「八重の桜」によって、現在は「新島襄の桜」と「新島八重の桜」という品種の桜が植樹されており、後付けではあるが桜との関わりも生じている。
それはさておき東北震災のすぐ後、それでも東北の桜は開花した。むしろ厳しい冬を乗り越えた桜は、例年より美しく咲いた。そのため桜は復興のシンボルとされた。その意味では、前向きに凛と生きた八重にふさわしい花かもしれない。「八重の桜」のオープニングに映し出されていた樹齢650年の石部桜も印象的だった。
なお湯浅半月は八重の死を悼んで、

五月雨はいかに降るともおやみなき我が涙にはおよばざるらん

という歌を詠んでいる。悲しみの涙は五月雨(梅雨)にもまさるものだったのだ。