🗓 2021年01月02日
吉海 直人
結婚後、派手な帽子・靴・和洋折衷の衣装で大いに人目を惹いた八重は、レディファーストで夫より先に人力車に乗るのは当たり前。当時珍しかった自転車に乗ったり、仲良く二人並んで御所を散歩したり、人力車に夫婦相乗りして有名な三島亭へすき焼きを食べに行ったりした。襄の教え子である小崎弘道は、
(『我等ノ同志社』32頁)
と証言している。ここに見える「腕を組んで」も「キッス」も八重と襄のことである。いくら夫婦とはいえ、今と違って人目を引いたという以上に顰蹙ものだったに違いない。
ハイカラな八重は、英国製のハイヒールも履いていた。結婚後まもない頃、八重が外出しようと思って靴箱からハイヒールを取り出すと、いつの間にか踵が低くなっていた。驚いて襄に告げると、「あなたが倒れてはいけないから私が切りました。実は結婚前からそれが心配でならなかったのです」(末光信三談『追悼集Ⅵ』347頁)と微笑みながら答えた。これは八重の新しいもの好きなのだろうか、それとも結婚前に修行してきた神戸ホームでの宣教師からの教え(贈り物)なのだろうか。
またある日、二人が人力車に相乗りしていると、どうした弾みか三条付近で車が後ろにひっくり返ったことがあった(八重が重かったからではなさそうだ)。幸い二人に怪我はなかったものの、翌日の仏教新聞に「耶蘇教は最早永続しないだろう。耶蘇の本山の新島が夫婦揃って車上から天を蹴ったから」(『追悼集Ⅵ』346頁)という滑稽な記事が掲載された。二人はそういった環境に置かれていたのだ。
こういった西洋風の暮らしは必ずしも八重の望みではなく、襄の理想に八重が協力した結果だと思われる。なにしろ「襄のライフは私のライフ」(『追悼集Ⅱ』304頁)と言い切った八重だから。「洋癖家」とまで言われた襄は、単にアメリカのクリスチャン・ホームを日本で再現したかっただけだろうが、そのため八重は京都の古い因習との闘いに明け暮れなければならなかった。
八重が闘う相手は京都人だけではない。身内であるはずの同志社の学生からも、八重は目の敵にされていた。当時学生だった徳富蘇峰はかなり辛辣で、
(『蘇峰自伝』85頁)
と酷評している。ただしよく読むと、決して顔が悪いと言っているわけではなく、和洋折衷の衣装の取り合わせや、襄に対する馴れ馴れしい態度を攻撃しているだけである。九州男児の蘇峰は、敬愛する新島先生の奥さんとして八重は相応しくないと思ったのだろう。
一方、八重の方はというと、襄との結婚を機にというかクリスチャンになったのを機に、ピアノの練習をしている。それは同志社英学校・同志社女学校が開設された後、定期的に京都府の役人が視察に訪れていたが、その明治13年10月28日の第14回視察の記事に、
とあることからわかる。「洋琴」とはピアノの訳語である(「風琴」はオルガン、「手風琴」はアコーデオン)。これを見ると、八重は役人の前でピアノを弾いていたことになる。もちろんこれだけでは曲名も腕前もわからないが、人前で弾いたことだけは間違いあるまい(襄は音痴で楽器も弾けなかった)。