🗓 2019年11月07日
皆さんはこの記事(福島民友新聞2019年11月6日付)を見てどう思っただろうか?「150年前、我々会津に対していわれなき理由をつけて攻め込んできた敵が、何をいまさら。」「会津は長州の篤志に礼をもって答えたのは当然である。」
今までに戊辰の怨念を超えて仲直りができないか両市は模索してきたのも事実である。私は元会津若松市長であった人から何回か聞いた。「俺もかなり迷った。私の市長時代は会津の状況では観光業界、経済界ともに「長州憎し」一辺倒で、とても市・市長レベルでの会津と長州の和解の実現は不可能であった。機は熟していなかった」
この記事を見て萩市の山本貞壽氏にさっそく電話した。「先生の官がだめなら民間でできることをしようという努力が時代を動かしましたよ。」と。山本先生は萩市で「山本内科胃腸科医院」を経営されていて萩市医師会長を務められた方である。 「長州と会津の友好を考える会」代表であり、会津には50回以上訪問され和解の糸口を探ってこられた。私は会津村の顧問をしていたこともあり、「新島八重を知ろう館」を運営していた時に先生と会津の郷土史家滝沢洋之さんを案内した時からのお付き合いだったろうか。我が家にも来て頂き隣りの蕎麦屋「岩人」で昼食を共にしたこともある。
新聞記事にもある「西軍墓地」慰霊祭にも先月参加されている。実は西軍慰霊祭の前に電話があり前夜の懇親会に私もお誘いいただいたのだが所用があり、お会いできなかった。
昨年、「戊辰150年記念誌 薫猶を選びて」を編集したときに長州を代表して先生に寄稿して頂いた。ちなみに薩摩(鹿児島)からは大学同窓の15代沈壽官先生に寄稿頂き、お二方に薩長が会津を現在どのように見ているか貴重なご意見を頂いた。
よく考えてみよう。「何故萩市は義援金を会津若松市に送ったのだろうか?東北大震災の被災地は3県であり他にもあったのではないか。」お分かりのように長州萩と会津の間には他のどこにもない歴史がある。それで会津若松市だったのである。義援金も多額の約3000万に上った。
もし先祖が闘った歴史がなければ、この寄付行為はあっただろうか。萩市では集めた義援金を会津に送る理由はなく、よその土地に贈っただろう。また「会津を支援しよう」ということで義援金が集まったのかもしれない。また災害が起こったのが逆の場合、会津若松市は萩市に相応の支援ができたのであろうか?も考えさせられる。
ラグビーは「ノーサイド」で敵味方はなくなりお互いに健闘を称えあうが、戦争は違う。戦争孤児が残り未亡人が残り、加えて遺恨が残り、敗者の悲惨な生活が続く。
戊辰戦争から150年
ここは素直に萩市民の温情に対して、会津若松市民として深く敬意を表したい。いや表すべきであろう。
(文責:岩澤信千代)