🗓 2019年12月18日
山本覚馬(同志社臨時総長)
新島襄は明治23年1月23日に大磯の百足屋旅館で息をひきとった。次の2代総長が小崎弘道に決まるまでわずかの期間に同志社の臨時総長に山本覚馬が就任した。(1890年1月~1892年3月)私の曾祖父岩澤庄伍の叔父である兼子重光(会津若松教会第3代牧師)が同志社神学校を卒業した時の神学校長は小崎弘道であったが、おそらく兼子重光も「この卒業式で」覚馬の謦咳に接したことは集合写真(明治20年頃会津藩関係者:大龍寺から斗南藩に行った松平容大もいた)に一緒に写っているので間違いない。重光は明治24年6月25日同志社神学校卒業である。その時の卒業生は普通学校47人、神学校16人、女学校5人、同志社病院付属看護学校10人、計78人であった。兼子重光は神学校16人のうちの一人である。重光の実家である湯川村勝常の兼子家にその卒業証書が残る。新島襄の肖像写真が卒業証書に印刷されている。最近福島テレビが取材にきて夕方の番組で、放映された。
(覚馬といえば「管見」)と言えばさも覚馬を知ったような気分になるが、実際はどういう考え方をしていたかよくわからないのが本当だろう。「不一・・新島八重の遺したもの」を書いた時の記憶ではこの卒業式の演説で反戦的な話をしていた記憶があった。
もう一度、資料をあたってみようと会津図書館に行って吉村康「心眼の人山本覚馬」を借りてきた。まさに388,389ページに書かれていた。根拠もなく創作で吉村氏が書いたとは到底思えないので何らかの根拠に基づくものであると思うのでここに紹介する。
「よろこびと希望に胸をふくらませて巣立っていかれるあなたがたの姿を、残念ながら私は見ることはできませんが、それというのも、20数年前に京都で起きた戦で目に傷を負ったためなのです。その戦いでは多くの人がかけがえのない命を失い、2万8千戸もの家が灰になりました。戦いが不幸しかもたらさないことを私は誰よりもよく知っているつもりですが、いまの日本はどんどんその危険な道へ歩き出そうとしている、つまり英国の力を借りて朝鮮へ、そして清国へ攻め込む機会を狙っていると私には思えるのです。どうしてそう思うか―それは、日本人の多くが貧しくて物を買う力がないのに、商品生産だけはどんどん発展しているからです。したがって、外に市場を求めようとすれば、どうぞどうぞという国がない以上、必ず戦争になるのは道理です。私はむろんそうならないことを願うものですが、もしも、不幸にもそういう日がやってきたら、どうか戦いで盲目になった私のことを思い出してほしい。そして、次の聖書の言葉を胸に思い浮かべていただきたいのであります。聖書にはこう述べられている―その剣をうちかえて鋤となし、その槍をうちかえて鎌となし、国は国に向かいて剣をあげず、戦闘のことを再びなさざるべし・・・・・・」
皆さんこれを読んでどう思われますか。まさに太平洋戦争の悲劇を予見しているようではありませんか。山本覚馬は「管見」により明治政府の根幹の部分に献策していて、確かに新しい国家像を導いたのは疑いのないことですが、富国強兵・軍備増強に危惧していたことが読み取れます。
来年、「新島八重遺墨展」を企画していますが、神奈川県二宮町にある「徳富蘇峰記念館」が所蔵する臨時総長就任時の徳富蘇峰宛覚馬の手紙の複製を展示する予定です。併せて、新島襄死亡後2週間後に差し出された蘇峰宛の八重の手紙を展示します。「庭に梅の花が咲いているけど襄が亡くなってしまったので梅の香りが全然しない」から始まる八重の悲しみが伝わる手紙も展示します。これらをご覧になれば八重や覚馬の人間性に数歩近づけると思います。
(文責:岩澤信千代)