🗓 2020年02月27日

最後のサムライ河井継之助と秋月悌二郎

 
《河井継之助》
慶応4年(1868年)5月19日の長岡城落城後、撤退兵約700名をまとめた東軍(会津・米沢・長岡・桑名・村松・村上・上山)の諸将が加茂の会津藩本営に集合し、軍議を行った。

5月22日(旧暦)
会津藩家老一ノ瀬要人、列藩の重臣を招請して軍議す。会する者如左ひだりのごとし
 米沢  中条豊前 甘粕備後 倉崎七左衛門 高山与太郎
 会津  一ノ瀬要人 西郷源五郎 山田陽次郎 秋月悌二郎 永岡敬次郎 柳田新助
 長岡  河井継之助 花輪求馬
 他桑名4名・村松2名・村上・上ノ山藩代表、氏名は省略。
是日の軍議、第一に一ノ瀬発議にて、中条(米沢)を推して総軍の主将となさん事を議す、固く固辞して不受。又敵をふせくの策を議すれ共、各相顧みて主として議を建つる者なし。只、河井継之助、勇断進撃して見附を取り、長岡を復するの説を唱え、傍らに人なき如し。又村松の田中等を責むるに、長岡落城の節尽力せず、其仕儀甚だ怪きを以てす、言甚切也。(甘粕継成日記)

戊辰戦争史をみると新潟が主戦場であった北越戦争において、長岡藩上席家老兼軍事総督河井継之助が同盟軍と軍議する記述が多く出てくる。しかし残念ながら紹介した軍議の他ごく一部を除いて継之助が軍議をリードする姿は見えてこない。有名な「小千谷会談」の翌日の1868年5月3日、長岡は西軍に対する開戦を決定し、仙台で奥羽列藩同盟が結成された同日北越11藩のうち村上、村松、三根山、黒川、新発田の各藩とともに加入し奥羽越列藩同盟が結成された。主力は福島県浜通りが仙台藩、中通り(白河口)は会津藩、北越は長岡藩と米沢藩と役割分担が決まった。長岡藩の総兵力は約1500人ほどであった。北越方面の盟主は、米沢藩と庄内藩が譲りあってなかなか決まらずともかくも米沢藩に決定した。7万4千石の長岡藩は小藩であり、継之助が北越同盟軍を統括することは、当時の状況ではありえなかった。奥羽列藩同盟の盟主は仙台藩であったのと同じく、徳川幕府の石高によって大藩が選ばれるのが順当であった。それは当然ことながら、兵力・武器など大藩ほど充実していたからである。
 新潟県は古来より米どころであり、豊穣であったがため徳川幕府は藩を乱立させ譜代大名や天領を配置し、上杉謙信のような強大な大名の出現をはばむ政策をとった。高田藩(榊原家15万石)新発田藩(溝口家10万石)が10万石を超えるのみで、残りは10万石以下の小藩である。尚且つ高田藩の約半分の石高は飛地にあった。高田藩は北越戦争の当初から西軍側にあり、西軍の本拠地として兵力増強や物資の輸送に協力していた。新発田藩はどっちつかずであったが、会津などの圧迫により奥羽越列藩同盟に渋々従っていたが、西軍に対し7月12日に内応を申し出ており、長岡城争奪戦の前後には武器弾薬の輸送基地であった新潟港へ西軍を誘導した。会津藩は9月22日に降伏したが、熾烈を極めた長岡落城前後、新潟港が西軍に押さえられたことで、武器、弾薬の補給が閉ざされ東軍の敗北は時間の問題であった。また、新潟港を西軍が確保したことにより、長岡城は南北から挟撃されることになり、この時点で北越同盟の敗北は決定的になり、米沢藩などは長岡城再陥落後、兵糧・弾薬を残し、兵を北越から撤退し帰国させた。プロシアの武器商人であったヘンリー・スネルは、会津藩で平松武兵衛という日本名をもらい軍事顧問となっていたが、新潟港が制圧されれば武器の増強を含め何事もなしえなかった。それ以前、幕府艦隊を率いる榎本武揚は徳川慶喜の謹慎を見守るためという理由で江戸湾から動こうとしなかった。戦力的には幕府艦隊の方が西軍の軍船より圧倒的な装備であったが、榎本が動かなかったため、戦わずして北越の港は西軍に制圧され、兵力・武器・弾薬の上陸が西軍の思うままとなり、東軍の戦局挽回は不可能になった。榎本は北海道に独立国を作る野望があったといわれているが、新潟において既に戦機を失っていたのである。戊辰戦争を全体的に見れば「錦旗」を作成した西軍の優位は、戦いを通して有利に進んでいったことは間違いない。
 継之助を語るには6月2日の今町の西軍陣地攻撃と7月25日の「長岡城奪回作戦」を抜きには語れない。5月19日は西軍の機動作戦により長岡城を失った。当時雨期であり、信濃川はあふれんばかりの水量であった。一応長岡藩は渡河され攻撃される可能性があるので、敵に船が使われないようにすべて掌中においたのであるが、長州の騎兵隊が下流で別途、船を他藩で調達し激流を渡り長岡城を攻撃した。実は継之助も同様の信濃川渡河作戦を考えていたが一日前に西軍が実行し成果を収めってしまった。当時長岡藩の主力は南方守備をしており長岡城を守備する兵は、幼年・老年兵のわずかばかりであった。城下で継之助もガトリング砲を自ら発射して応戦したが多勢に無勢で撤退を余儀なくされた。継之助は5000両の大枚で購入したのだが、集団で攻めて来る敵兵には連射可能なガトリング砲は有効であっても、散兵して攻めてくる敵兵には効果ないことが露呈した。
 7月25日継之助は綿密に作戦をたて、約700名を率い、現在は美田となっているがその当時は沼地であった八丁沖を潜行し奇襲をかけて長岡城を奪回した。西軍の戦死者69名戦傷者133名、東軍戦死者119名戦傷者83名という大激戦であった。死者数は長岡藩が多かったが、戦死傷者数はどちらも計202名で不思議な数値の一致である。その4日後に物量に勝る西軍が再び長岡城を奪取したとはいえ北越戦争において燦然とした快挙であり、「長岡藩の武門の意地」といえる。その後、継之助が負傷したことにより北越の東軍の戦闘力は圧倒的に劣勢になり、会津の鶴ヶ城落城・降伏謝罪となっていくのである。

私は会津に生まれ育ったので、長岡には子供のころから親近感を抱いていた。成長するにつれ近くの飯寺にある「長岡藩士殉節の碑」がなぜあるのか気になっていた。西軍の捕虜になり、再三降伏を勧められたが、「藩主から停戦の命令は出ていない」と言って敢然と拒否し若干24歳で大川において斬首された長岡藩家老山本帯刀の精神に感動を覚えたのは最近である。山本帯刀隊は霧の中進軍したため、友軍と離れ敵の後方に孤立してしまい宇都宮藩に捕縛されたことも戦闘図で最近知った。山本家は当主を失い、かつ戦後河井継之助と山本帯刀は北越戦争の戦犯とされ家名断絶となったが、明治憲法発布により恩赦された。藩主牧野忠篤子爵が、名門山本家の復活を願い高野貞吉の6男五十六に山本家を相続させた。有名な連合艦隊司令長官山本五十六である。ちなみに五十六の妻礼子(旧姓三橋)は旧会津藩士の娘である。

「峠 最後のサムライ」が2020年に役所広司主演で上映されることが発表された。既に2018年に新潟県でロケが開始されている。「義」を重んじた河井継之助の生涯をのぞいてみようと有名な司馬遼太郎の「峠」から入り、会津図書館にある継之助関連の文献をあさり、ネットの「古本屋」で手に入るものは購入した。
 NHK大河ドラマ「八重の桜」が放映される前年に拙書「不一・・・新島八重の遺したもの」を上梓した。その過程で長岡に取材に行ったのであるが、目的は山本八重と長岡の山本帯刀家はつながるかどうかであった。その時、「山本五十六記念館」と「山本五十六生家」などに行ったが河井継之助関係史跡へは足を運ばなかったのが残念である。記念館では山本五十六筆のコピー「常在戦場」の色紙を購入した。「常在戦場」は長岡藩の藩是である。山本覚馬・八重家(近江源氏:四ツ目結)と山本帯刀家(駿河源氏:巴紋)は家紋が違った。会津の山本覚馬家は山本勘助の流れをくむという説があり、武田信玄の軍師である山本勘助との関連は家紋を見る限り長岡の山本帯刀家の方が血流として可能性が近いのではと結論付けていた。最近になり安藤英男氏の著書「河井継之助写真集」の中に、山本家は今川氏に属し駿河国久能城主3万5石を領した山本義成の長男が、武田信玄に仕え川中島で戦死した軍師山本勘助であり、その弟山本成行から12代目が継之助の右腕の長岡藩家老山本帯刀である家系図があり、五十六は13代目に当たることを発見した。それならば家紋の一致と整合性が取れることが首肯された。

さて、河井継之助の人物の評価は難しい。写真で見る栄涼寺にある河井継之助の墓は、角々を含め全体が摩滅していて痛々しい。戊辰戦争後、家を焼かれて財産を失った長岡藩領民に引き倒され・引きずられ摩耗したという。地元長岡の人たちの評価は時代とともに変遷したようだ。継之助が西軍に戦いを挑んだために城を失い、家族を失い戦火により財産を失った領民の気持ちを考えると河井家の墓をいじめ抜く領民感情に同情を禁じ得ない部分もある。今回読んだ文献の中に、ある作者のコメントがあった。「河井継之助は義のため戊辰戦争を戦った。長岡藩出身者は戊辰後中央(国レベル)で名を成す人が綺羅星きらぼしのごとくであるが、奥羽越列藩同盟を早々と裏切った新発田藩出身者に中央で名を成した人は少ない。」と。継之助亡き後の長岡藩には小林寅三郎・川島(三島)億次郎が残った。大参事となった小林寅三郎が支藩の三根山藩から見舞の「米100俵」(藩士一人当たり4合)を単純に旧藩士たちに分配せずに米の売却代金270両で「国漢学校」を作り書籍を購入し、長岡の青年たちの教育のために活用したのは有名である。両名は継之助の参戦論には最後の最後まで反対した長岡藩の尊王派のリーダーであった。継之助と西軍軍監岩村精一郎の有名な「小千谷談判」の決裂を受けて抗戦と決まってからは藩論に従い戦い抜いた。体が弱く号を「病翁」と称した寅三郎は藩主に付き従っていたが、川島億次郎の戦場での活躍は「会津藩戊辰戦争日誌」に頻繁にその名が出ている。特に億次郎は継之助が小千谷談判決裂後、警備にあたっていた前島で継之助と遭遇し開戦やむを得ないことを告げられた。「それは、貴公が平生の所信と違うではないか。他に方法はないか。」と億次郎は継之助に再考を促した。「それでは、わしの首を斬り、3万両を添えて岩村に届けよ。そうすれば、わが藩は無事に済むかもしれない。」と言われ継之助に命を預ける覚悟を決めた。北越戦争で、西軍が動員した兵力は40藩4万名であり、東軍は主力の長岡兵1200名、会津・桑名が約700名、米沢藩その他5藩と旧幕府脱走兵を合わせ5000名にも満たなかった。大砲、鉄砲などの装備や食料補給についても同盟軍の劣勢は歴然としていた。内戦をしていたら、世界の列強国に日本の領土が侵犯されることは十分に承知していたことは、継之助の手紙などに遺る。それ故に長岡藩は中立特行を目指し、東西両軍の仲介役を目指そうとしたのである。西郷隆盛と勝海舟が江戸城明け渡しに合意し4月8日には明け渡しがなされたことは、継之助は知っていたと思われる。それだからこそ、「小千谷会談」の時点で西軍の参謀である山県・黒田と会って話せば戦争は回避できると思ったかもしれない。西郷が「地位もいらぬ、名誉もいらぬ人は始末に困る」といったのは勝海舟ではなく山岡鉄舟を指しての事である。西郷との会談が決裂すれば戦闘を選び、江戸を焦土化すことまで勝は考えていたという。篤姫などの働きもあったと思うが、幕臣の山岡鉄舟の奔走などが、平和開城となったのである。同じように継之助は西軍と話せばわかるという期待があったものと思われる。結果的に岩村精一郎に無視されてやむを得ず決戦を挑んだ。逆に継之助の決断により、北越戦線は激戦となった為、戦線補強のため西郷隆盛は8月10日柏崎に来航した。継之助には残念ながら、山岡鉄舟などの人物が周りにおらず、一人ですべて行わなければならなかった小藩家老の限界ともいえた。軍事的にも山本帯刀は大隊長として奮戦したが、長岡藩兵すべてを統括することはできず、継之助負傷後は、兵をまとめる将がいなかった。長岡藩は2万4千石に減らされたが、継之助・帯刀2名のみが戦犯とされ、藩士の大半は戦後に長岡領に帰りその後の長岡や日本の発展に寄与した。

《山田方谷と継之助》・・・・・・・・・写真・・・・・NO1山田方谷書(法国寺蔵)
 河井継之助の生涯にあって一番に影響を受けたのが備中松山藩(岡山県高梁市)の山田方谷である。河井継之助は藩の許可を得て方谷のもとへ自費留学した。安政6年(1859年)6月7日に備中向けに出発し、7月16日に到着した。その為の資金を父代右衛門に無心した手紙が遺る。当時のお金で50両、現在の価格では350万から500万ほどであろうか。継之助の生家は120石であり父代右衛門は累進して勘定方などを歴任し、風流・和歌を好む穏やかな人柄であったという。上士の中間くらいの身分であったが、河井家は歴代の貯蓄もあり田畑なども所有し、長岡藩士の中でかなり裕福であった。総じて長岡藩士の生活は楽でなく年末などには藩が藩士に援助のための貸し付けなどをしていたが河井家では余裕があり、それを活用したことはなかった。戦時用にと自宅で箱に入れ保管していた予備資金もかなりあったようである。父に無心してそのお金も継之助は遊学や遊興費に大いに使ったようである。備中松山の方谷への遊学については、父へのお土産話にするためか継之助は旅日記をつけていた。有名な「塵壺ちりつぼ」である。旅中、富士山に登ることを試みたがぬかるみのため断念した。悔しい気持ちを吐露している場面もある。方谷との初対面の模様なども記述されているし、会津藩士土屋鉄之助、秋月悌次郎との交遊なども記述されている。秋月悌次郎とは備中松山と長崎で会った。初めて行った長崎では、顔の広い秋月に案内され数日いろんなところを見て回った。
 「17日  曇 同(逗留)
  ・・・・前略 『山下屋』へ移る後は秋月悌次郎同宿、同間にあらず。秋月、薩摩その外、諸藩の事を記する事くわし。再会せば、頼み見ん。同夜遊歩、諸物を冷客ひやかす。・・・・・
唐館、蘭館を見る事、通詞と懇意になる事、皆、秋月の取持なり。他日,江戸に会わば、一杯を進す可し。・・・・・。秋月、予の業を治めざるを言う、尤も彼のする処と志は違えども、責むる所、かたじけなく、且つ予、その責をまぬがかれず。彼の賢愚は、予の目中(眼中)にあれ共、不用の事故ことゆえ、記さず。・・・・・・・・・・・・・・・・後略。」

長崎遊学をはさんで方谷のもとで1年ほど滞在した。幕府の老中首座であった松山藩主板倉勝静かつきよ(松平定信の孫にあたる)の補佐をするために江戸に行っている間(50日間)、継之助は長崎に足を運んだのである。「八重の桜」の主人公新島八重の夫である新島襄は上州安中藩板倉家の江戸屋敷で生まれたが、松山藩板倉家は安中藩の本家筋にあたる。襄は安中藩の本家筋である備中板倉家のつてで若いころ幕府の軍艦に搭乗することができた。新島襄は函館から米国に密航したが、この経験があったからこそアメリカに目が向いたともいえる。
 継之助が父親に遊学資金を無心した時の手紙は「右、山田安五郎と申す者は、元来百姓にて、・・・・後略」とのべているが、方谷は庄屋の生まれであるが農民出身ながら藩士に登用され貧窮した松山藩の財政を立て直した。継之助が入門した時は、自ら先頭に立ち新田を開発中であった。方谷は江戸においては、佐藤一斎の塾で佐久間象山などともに学び塾頭などをして経験している。継之助が方谷を訪ねた時に、「佐久間象山は頭が切れるが傲慢である」と方谷は批判的であったという。方谷は陽明学の造詣が深く、知識と行動を一致させる「知行合一」を実践し成功していた。安政6年7月18日継之助は方谷のもとを訪れたが、松山藩では弟子をとるためには藩の許可が必要であったために藩の許可が出るまでに「花屋」という旅館を紹介された。そこに会津藩士土屋鉄之助が泊まっていた。藩命により土屋は諸国を漫遊していたので継之助にとっては珍しい話をした。21日に土屋が去ると間もなくして同じ会津藩士秋月悌次郎が「花屋」に滞在した。8月1日秋月は西国に立ち去ったがその間意気投合し色々と話し合ったようである。継之助は松山在中、三島貞一郎(中州)はじめ方谷の高弟と交流した。三島中州はその後大審院判事となり、二松学舎(現在の二松学舎大学)を創立し、宮中顧問官などを歴任した。方谷のもとで継之助は「経世・済民」の思想を学び、窮乏した長岡藩の財政再建のノウハウとなり、後に長岡藩の財政改革に非常に役立つことになる。「大塩平八郎の乱」にみられるように江戸時代を通して、封建領主にとって陽明学は反逆の学問とされ大手を振って認められるものではなく温厚な儒学が主流であった。

方谷は、継之助が帰郷するときに4両で「王文成公全集」(王文成公とは王陽明)の著書を譲り渡し、そして1800字に及ぶ文を添えた。概要は、継之助が「成功を急ぐあまり、却って害を及ぼすことが心配である。王陽明の基づくところは至誠であり、本質をよくわきまえて業を行えば自然に物事が成就するものであり、理につながるものである。」方谷のもとを去るにあたり、川べりに立った方谷夫妻の見送りに対し、何度も何度も河原の砂石の上にひざまずき、方谷に向かい師が見えなくなるまで何度も頭を下げた話は有名である。

「其ノ長瀬ヲ辞スルヤ、右全集ト一瓢酒トヲ振分ケニ肩ニシ、他ニ何物ヲモ携ヘズ。河ヲ渡リ、師・方谷ノ対岸ニ立テルヲ見テ、幾度カ沙石ノ上二跪座きざ作礼シテ去ル。」(山田方谷全集)

方谷は長生薬を一袋贈ったというが、継之助の道中の無事を願ったとも継之助の性格から功を焦り早死にをしないようにとの意味を含んでいたともいわれる。後に方谷は継之助の戦病死の報を聞いてから、陽明学を教えたことが継之助を早死にさせたのではとないかと沈痛の日々であったという。方谷の嗣子山田準がいうには、長岡藩の開戦やむなしの事情を聞いてようやく安堵の色をうかべたという。愛弟子継之助の死は方谷にとってやりきれない事件だったのである。

《秋月悌次郎》・・・・・・・・・・・・・写真NO2「北越潜行詩」(法国寺蔵)
秋月悌次郎は150石会津藩士丸山胤道かずみちの次男に生まれ、胤永かずひさと名乗った。丸山家では長子のみが丸山を名乗り、次男以下は別名を名乗ることになっており弟三郎とともに秋月姓となった。会津藩では跡継ぎである長男を除き次男以下は「浪人」と呼ばれ家名を継ぐ長男とはかなり違った待遇が顕著であった。大身の内藤家老家など次男以下は「武川」を名乗った例が他にもある。会津藩には「日新館」という藩校があり、10歳になれば100石以上の藩士の子弟であれば、長子のみならず男子はすべて入学することが義務付けられていた。成績優秀な生徒は書物の提供や江戸留学・長崎遊学などの恩典が与えられた。
 悌次郎は極めて優秀で23歳で当時の最高学府「昌平黌」に入学を許された。そして、31歳の時に舎長となった。昌平黌はのちの東京大学へと変遷していくが、徳川幕府時代の最高学府であり、人物・成績が優秀な生徒が舎長に選ばれた。舎長とは全国の藩から集まった学生の指導監督役であり全国一の学生と目される立場であった。悌次郎は舎長を3年間勤めた後会津に戻った。その後西国諸国を遊歴したのだがその途上河井継之助と面識ができたのである。後に悌次郎が京都で公用役(外交係)として薩摩をはじめ各藩の中心人物と折衝を行うことができたのは昌平黌の有力な人脈があったことによる。
 文久3年(1863年)会津藩が薩摩藩と手を組み朝廷から長州藩や公家(七卿落ち)を追い出した「8月18日の政変」は、秋月悌次郎と薩摩藩の高崎佐太郎が中心となった。その後、薄禄出身で次男坊の悌次郎は、支援者であった横山主悦常徳が死亡するや藩内のねたみにあい、蝦夷地(北海道斜里)の代官に左遷されてしまった。薩摩藩をはじめ各藩に知人が多く対外折衝に有能であった悌次郎の左遷は、会津藩にとって最大の不幸であった。彼の左遷後坂本龍馬の斡旋により「薩長同盟」が成立してしまったのである。慶応2年(1866年)慌てた会津藩は飛脚を飛ばし秋月悌二郎を京都に呼び戻した。悌次郎は12月にその命令書を受け取ったのだが部下が引き留め春になってから上京するよう進言したが、「君命重し猶予ならず」といい12月3日厳寒の中京都に向かった。激動の中、藩中の妬みにより、悌次郎が京都にいなかったのは本当に悔やまれることであった。その後、悌二郎は公用方から会津戦争では軍事奉行添役となるが、河井継之助と再会したのは、北越の戦場であった。
 慶応4年(1868年)9月22日会津藩は1か月の籠城戦を経て降伏開城したが、藩主容保が臨んだその降伏式を仕切ったのは悌次郎であり、梶原平馬や内藤介右衛門すけうえもんとともに藩主親子に付き従った。その様子を描いた錦絵が遺る。その錦絵の中ふんぞり返った薩摩藩の軍監は「人切り半次郎」と呼ばれ後年西南戦争で西郷隆盛と共に最後を遂げた腹心桐野利秋であった。会津藩の格調高い降伏謝罪文は難解で当時の中村半次郎は全く理解できなかったと後年語っている。
 敗戦後、猪苗代で謹慎の身であった悌次郎は、収容先を秘かに抜け出し、越後の西軍参謀奥平謙輔(長州藩士)に藩主容保の減刑と二人の少年の教育を頼んだ。後に東京・京都帝国大学総長等を歴任した教育界に名を遺した山川健次郎はその一人である
 悌次郎は明治5年に罪を許され明治政府に勤務することになり文部省に移ってからは教職の道を歩んだ。熊本の旧制五高では、倫理・漢学などを教え長いひげを蓄えたその風貌と格調高い講義は多くの学生から信頼され尊敬された。当時五高で教鞭をとっていた英国人ラフディオ・ハーン(帰化して小泉八雲・小説家)「革新と伝統を引き継いで生きぬいた会津武士として、最も日本人らしい日本人」「神のような人」と称賛した。

《享年42歳と77歳》
河井継之助と秋月悌次郎はそれぞれ120石・150石取りの武士の家に生まれたことは似ている境遇であった。継之助は長男として育てられ、悌次郎は次男として成長した。その後、二人は学問と胆力で自分の道を切り開いていった。継之助は主席家老まで累進し、悌次郎は軍事奉行添役となり北越戦争では会津軍の中枢となり戦った。(北越方面の軍事総督は家老一ノ瀬要人:墓は光明寺に新島八重の父山本権八と並んで存する)二人は30代に、備中松山の山田方谷の塾や長崎で邂逅かいこうし肝胆相照らす同志ともいえる仲になった。しかし、二人の進んだ道は異なるものであった。同じ戊辰戦争を戦ったが継之助は主席家老兼軍事総督として長岡藩の消長を決する立場になったが、悌次郎は会津藩の参謀格である。藩の中での地位及び決定裁量権は継之助が圧倒的であった。継之助は、スイスのような中立国を目指していたようだ。小千谷会談では、西軍の軍監岩村精一郎(若干23歳・土佐藩)に「西軍参謀の山県有朋か黒田清隆に面談したい。戦争はしたくない。会津を説得するから任せてくれ。」というような趣旨を述べたようだが、単なる時間稼ぎととられ無視されてしまった。継之助が西軍本営を訪問するほぼ同時期に会津藩を中心とした東軍が戦いをしかけ、撤兵するときに戦場に体よく長岡藩の「五間梯子」の軍旗を残した。長岡藩を東軍に加入させようとする会津藩軍将佐川官兵衛の謀略だったのでないかともいわれる。佐川官兵衛は会津藩の精鋭青龍士中隊を中心とした800名を新潟に展開して列藩同盟に加入するよう長岡藩に圧力をかけていた。佐川官兵衛の証言が遺る。「河井君と話をするときは一息も油断ができない。あんなに早く理屈が見えて話に切り込みの激しい人は少ない。確かに近代の豪傑である。」東軍が仕掛けた突撃により西軍は混乱し会見場所も西軍本営(小千谷の元会津藩陣屋)から慈眼寺に変更された。横柄な岩村から良い返事が得られず、尚且つ嘆願書も受け取ってもらえず、決裂後、本営を守る各藩寄せ集めの西軍兵士に嘆願書の取り次ぎを申し込んだが、西軍の兵士は無視しづけ、岩村も継之助を無視した。その為、宿を取り、翌日再度取次ぎを何度も懇願したが無視され、進退窮まり、長岡へ帰還することとなった。継之助の心中いかばかりのものであったろうか。また、岩村精一郎は「封建時代の常として各藩の重役は何れの藩も門閥家のみ。所謂いわゆ莫迦ばか家老たる習いなれば、現に随行せる信州各藩の重役の如く・・・・・」河井継之介も、門閥にありがちな無能な家老で交渉相手にならずと思っていたと後年語っているが、長州出身の参謀山県有朋の命令(継之助を山県が到着まで引き留めておく)が届いたのは継之助が小千谷を去った後であった。継之助は岩村に拒絶されたことにより、継之助は戦争の道を選択するのであるが、これは幕末に3代にわたり幕府老中を引き受けた藩主牧野家の生い立ちにあった。三河の牛久保にあった牧野家は周辺の強力大名の圧迫から領国を守るのに苦労していたが、徳川家康に見いだされ譜代大名の地位を築き上げていった。継之助は藩の体力を考え、藩主に京都所司代の辞任を迫った。牧野家が所司代を辞任した後に所司代に任命されたのは桑名藩主松平定敬(松平容保の弟)である。かくして、新たに設けられた京都守護職と京都所司代は二人の松平容保・定敬兄弟が任命されたのである。そして、桑名藩は、本拠地を西軍に奪われた後(桑名に残った藩士は西軍に味方し藩主とは異なる行動をとった)は、飛地である越後柏崎により西軍と戦うのである。牧野家は京都守護職を免じられたが間もなく老中に任命された。藩主に京都守護職の辞任を進言し幕府に認められて安心していた継之助は、これまた藩主に進言し老中の地位を辞職させ、藩の経済を立て直すよう藩主に強く進言し長岡に帰還させた。記録によると元治元年から翌慶応元年の長岡藩の収支は自然災害もあり、収入が2万1800両に対し支出は5万8860両で3万5552両の赤字であった。長州藩は慶応元年に1万3800両を銃の購入に充てていたことを考えると国力は雲泥の差である。継之助は仕えた藩主牧野家の歴代当主により、その能力を見込まれて累進し長岡藩の最高権力者となった。栄進を重ねるごとに自分を引き立ててくれた藩主牧野家の徳川家に対する忠義は十分に理解し得ただろう。また、ガストリング砲を2門(国内では3門のみ)持っていたことやその他鉄砲の装備、兵士の訓練を行ってきたことを考えても「武力を充実させたうえでの中立」には程遠いことは十分に理解したうえでの決断であったろう。兵の訓練は大変だったようで指揮官が扇にフランス語の命令書を書き付けておいて読み上げたという。兵隊は進軍したが土手に突き当たり停止したままとなった。指揮官が扇に書いた命令をはじめにすべて読んでしまい命令が混乱したというエピソードが残る。又、鉄砲は足軽がやるものであり武士は刀・槍で戦うものだという意見が多数あり、藩士の意識を変えるために全藩士の石高を100石に平準化する荒療治を行った。前述の名門山本帯刀家老は1300石から400石に減ぜられたが、継之助の意をくみ大隊長として継之助指揮のもと潔く戦い会津の河原で漸首された。少額の石高のものは100石に近づくように配分された。しかし、継之助が銃弾に倒れた後は、長岡藩の指揮系統は混乱し敗走し総崩れとなった。会津に逃れるため通った難所八十里峠で詠んだ有名な継之助の自虐的ともいえる歌がある。
 「八十里 こし抜け武士の 越す峠」
 慶応4(1868)年8月16日継之助は、再起を図る為藩主のいる会津若松へ向かったが会津只見町の医者矢沢宗益宅で短い一生を閉じた。継之助臨終の座敷は移築されて只見町の河井継之助記念館に現存する。

秋月悌次郎は1824年、河井継之助は1827年生まれで3歳違いである。出自は二人とも百石ほど封建時代の上士であったがその後勉学に励み藩の重要な役割を果たすことになった。二人は30歳を過ぎた頃、備中松山と長崎で肝胆相照らす仲となった。その後の人生は、北越戦争で奥羽越列藩同盟の一員として西軍に戦いを挑んだ。立場は大藩の軍事奉行添役である悌次郎と小藩とはいえ藩の運命を握る主席家老の継之助とは大きく違った。責任の重さは一藩の運命を握る継之助の方が上であったろう。窮乏する藩財政を立て直し(20万両の借財を無くし、逆に同額程貯蓄し、武器なども充実した)、東西両軍に与せず軍備を整えてスイスのように中立国となり独立特行しようとした継之助は、残念ながら銃弾で傷を負い、破傷風にかかり42歳と若くして落命した。滅藩ともいえる処分を受け北辺の地に追いやられた会津藩の秋月悌次郎は、罪が許された後教育界に進み多くの有為な人材を育てた。
「民は国の本 吏は民の雇い」をモットーとし、経済に明るい河井継之助が新政府でしかるべき地位について活躍していたら、その後の「日本の姿」が変わっていただろうと思うのは私だけだろうか。

これは、2019年「歴史春秋」に岩澤信千代が寄稿した文章です。