🗓 2020年04月04日

鈴木茂雄著「会津の名園攬勝亭」の中に「攬勝亭沿革記」が記述されているが会津松平家藩主正容が目黒浄定を招請し丹羽勘右衛門に作庭を命じたと記述されている。正容はその後勘右衛門に攬勝亭10景景題を与えたという。その後勘右衛門は真図を模写し京都や江戸の高名な諸賢を歴訪して賛を得たと書いてある。

景題「炙背嶺秋月」の和歌については、鈴木茂雄氏が紹介したものと同じであるが、漢詩については紹介されたものは五言絶句であるが、まくりの方は七言絶句である。内容も違う。
この著書によると会津史談会誌2号と20号に記載があるようなので、謎の解明に図書館に行って調べてきます。添川廉斎と野矢常方の名前が鈴木氏の著書に出てくるが、正容の時代とは違う。添川廉斎と野矢常方とが画家渡辺東郊は同じ時代を生きた可能性があるが、正容の元禄時代とは違う幕末である。鈴木氏の言うように詩歌が添川廉斎と野矢常方の作とするには無理があろう。和歌のレベルが「櫻井の別れ」を作った野矢常方の力量ともかなり差があるように思える。

この漢詩と和歌の作者は誰なのだろうか、解明できるだろうか興味津々である。

(文責:岩澤信千代)