🗓 2020年04月09日

雷(かみなり)

私は純農村地帯で育った。今でも農村地帯ではあるが「純」は取れてサラリーマンが多くなった単なる農村地帯となった。純農村地帯には特徴がある。農閑期と農繁期と晴れの日、雨・雪の日があって、村人の行動は異なるのである。農業に不適な日にはしょっちゅう誰かしらお茶のみに来ていて賑やかだ。少年の頃、茶の間で家人と村人の話を聞いた。

「昨日、だれだれの畑に雷が落ちた。そこは芋畑だったので落ちた雷(雷様らいさま)は女の雷様だったべ。」などと話して大人たちは大笑いしている。私は何で笑っているのか皆目わからなかったのだが、客が帰って反芻してみると「イモ畑だったから女の雷だった」と言うことか。たわいもないことで大笑いする純農村での話であったが、それだけつまらない話に熱中する人々の日常の交流があったのだと今は納得する。

私の祖父は激戦地硫黄島で戦死した。戦争未亡人であった祖母ノブヨに戦争の歌を歌ってとせがんだことがある。祖母は孫のために「勝ってくるぞと勇ましく・・・・・」と歌い始めたのだが最後まで歌いきった事はなかった。亡くなった夫のことを思い出すから戦争の歌を歌いたくなかったのだろう。そのことに気が付いたのはずっと後になってからだ。
とても甘やかして育ててくれた「ばんちゃ」に大変申し訳なく、今でも思い出すたびに心が痛む。

「乳白色の白」で有名になった藤田嗣治画伯は戦争中日本に里帰りしていて「戦争絵画」を書いた。太平洋戦争が終結し「戦争協力者」として周囲の非難は日増しに高くなって、フランスのパリに向かい、二度と故国日本の土地を踏まなかった。

古関裕而にも「七つボタンの予科練」とか私の祖母が嫌々歌った軍歌も多く遺している。
藤田画伯と同じように我々は古関裕而を責めるだろうか。そのような状況に置かれたときに軍部の圧力に反抗せず拒否できるか。できない人の方が多いだろう。

喜多方市出身者の キリスト者矢部 喜好は日露戦争の時、かたくなに兵役を拒んだ日本初の「良心的兵役拒否者」である。軍部も折れて最終的には銃後の看護活動をさせ従軍した扱いにした。

私の稿にたびたび出てくる大学同級生栗山俊平君の持ち歌は「六甲おろし」と「高原列車」である。最近いずれも古関裕而の作曲であることを知った。「六甲おろし」など山国の会津の育ち、プロ野球と言えば読売巨人軍しか知らない私は彼の歌を聞いて文化的ショックを覚えた。
「高原列車」は、彼の行きつけの六本木のクラブで何度も聞いた。やおらハンカチを出しそれを振りながら腰を振り振り歌うのである。なまめしくもあり、とてもホステスに受けた。彼の歌に惜しみない拍手を送ったのだが、どうゆうわけか飲み代を払った覚えがない。すべて彼のおごりである。タクシーのチケットまで貰って帰ったこともある。まあ、下手な歌に拍手を送った駄賃としておこう。

「長崎の鐘が鳴る」も古関裕而の作である。藤山一郎が歌うその歌は敗戦を経験した私たち日本人にどれだけ勇気を与え続けたか。「栄冠は君に輝く」はどれだけ高校球児を勇気づけたか古関裕而の功績は大きい。古関裕而が軍歌を作ったことを戦争協力したと批判する人々もいるかもしれないが、この私の意見に異論は出ないだろうと信じる。

(文責:岩澤信千代)