🗓 2020年05月09日
吉海 直人
八重の両親は、父権八・母佐久(文化6年生まれ)である。山本家には娘の佐久しかいなかったので、同藩(近所)の永岡繁之助(四男)を婿養子として迎えた。後に繁之助は「権八」という名を襲名している。二人の間には三男三女が生まれており、長男が覚馬で三女が八重であった。かつては二男と長女・二女は早世したとされていたが、長女は早くに窪田家へ嫁いでいたことが判明した。三男の三郎は、戊辰戦争の折に亡くなっている。
母の佐久は進歩的な考えの持ち主だったらしく、率先して八重と三郎に種痘を受けさせた。そのことは「会津会会報8」(大正5年)の中に、
(34頁)
と紹介されている。おそらく八重は母佐久の血を濃く受け継いでいるのであろう。
それ以外にも『山本覚馬伝』には、「お前たちは足るということを知らねばならない」(43頁)とか、「決して自分からは仕かけるな。けれども先方から争いを挑まれた場合にはあくまで対抗して、ただ自らを守るだけでなく、進んで勝利を得なければならない」(44頁)と教育したことが記されている。そのため覚馬は、「自分は母の聡明には及ばない」(44頁)と語ったとのことである。
京都へ移住した後、八重と結婚した新島襄が、同志社英学校に続いて同志社女学校を設立すると、姑となった佐久も女学校の運営に参加する。八重が洗礼を受けた同じ年(明治9年)の12月に、佐久も洗礼を受けた。明治11年9月に女学校の新校舎(寄宿舎付き)が完成すると、佐久は早速初代舎監(執事)になっている。そのことは「同志社視察之記第六回明治十二年十一月廿八日」に、「校中取締女ナル襄ノ外姑アリテ」(『同志社百年史資料編一』)と記されていた。これは寄宿舎の寮母であるから、佐久は八重以上に女学校の運営に正式に参画したのである。当然、会津方式の教育を実践したであう。
そのため若い米国女性宣教師の教育方針と真っ向から対立することとなり、かなりシビアーなやりとりがあった。もちろんここでも佐久や八重は負けていない。戦争をかいくぐった佐久と八重の会津母娘タッグは、さぞかし手強かったことだろう。むしろ経営権のある宣教師側のスタークウェザーの方が体調を崩してしまい、明治16年5月に帰国したくらいである。
喧嘩両成敗なのかそれとも老齢からか、佐久はその明治16年に舎監を辞めている。従来はこの一件をマイナス要素として受け止めていた。しかしながら英学校にしても、襄の没後にアメリカ人宣教師と日本人教師による主導権争いが起こるのだから、女学校は早々とそれが始まっていたと考えることもできる。どちらが悪いというのではなく、佐久の舎監としての実績を再評価することはできないだろうか。
この佐久は長寿で、明治29年5月20日まで存命であった(享年87)。その間、孫の峰は産後の肥立ちが悪く、明治20年1月に亡くなっている。覚馬も明治25年12月28日に親よりも先に亡くなった(享年65)。その娘久栄も覚馬を看取った翌年に亡くなっている。こうして山本家の血筋は、佐久の見ている前で途絶えてしまった。