🗓 2020年06月06日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

明治23年3月4日に書かれた山本覚馬の短い書簡を紹介したい。これも徳富蘇峰記念館所蔵のものである。

山本覚馬書簡(徳富蘇峰宛)
拝啓仕リ候。爾来ハ絶テ御無音ごぶいんニ/打チ過ギ、御海恕下サルベク候。陳(ノブレ)バ新島襄
就眠ノ際ハ一方ナラヌ御厚慮ヲ/蒙リ、深謝奉リ候。其后ハ彼ノ
後任トシテ小生ヲ推撰セラレ候/得共、何分御承知ノ身体
ニ付キ、萬端不都合勝チ、乍併(シカシナガラ)、/わずか日子にっし兎モ角モ承諾ハつかまつ
置キ候得共、希(コイネガワ)クハ百事御遠慮/ナク御心添ノ程懇望奉リ候。
右ニ付キ、小生ガ舊知ノ榎本、/勝、井上、伊藤、松方、
加藤弘之、西周、及ビ河島/醇、諸氏、ヘモ取敢ズ
将来ノ為、依頼状ヲ本日/差シ出シ置キ候間、大様御承引
下サルベク候。先ハ右貴意ヲ得度(タク)。
         草々敬具
  三月四日
         山本覚馬判
  徳富猪一郎様
  湯浅次郎様
  • 〔 注 〕
  • (1)封筒・書面には「三月四日」とだけあって、何年に書かれたかは記されていない。幸い封筒の消印に明治二十三年と見えるので、明治二十三年三月四日で確定した。この日付けは、新島襄が一月二十三日に亡くなって一ヶ月余り経過した時期である。襄の死後、一月二十八日の社員会で、覚馬は臨時総長に推挙されている。ただし同年三月三十一日の同志社評定会で、総長は暫時欠員と決まっているので、その日に覚馬は臨時総長を辞任していることがわかる。
  • (2)「御無音」はご無沙汰に同じ。
  • (3)「御海恕」は海のような広い心でお許し下さいの意。「御海容」に同じ。
  • (4)「日子にっし」は日数の意味。僅かな日数(期間)だけ臨時総長に就任したということ。
  • (5)覚馬舊知の人として上げられているのは、榎本(武揚)・勝(海舟)・井上(馨)・伊藤博文・松方(正義)・加藤弘之(二代目東大総長)・西周・河島醇など、錚々たる明治期の政治家・教育者である。これらの人に同志社の将来を頼んでいるというのだから、覚馬の人脈のすごさは言うに及ばず、この手紙の存在自体、同志社にとって貴重な資料といえる。
  • (6)湯浅次郎は群馬県安中市の有田屋第三代当主で、新島襄の感化によりキリスト教に入信した。彼の妻が蘇峰の姉初子なので、蘇峰は義理の弟にあたる。明治二十三年には衆議院議員に当選している。
  • (7)「親披」は「親展」に同じ。受取人が自ら開封して下さいということ。

【解題】
 この手紙は、新島襄の葬儀に列席した人々へのお礼状としてしたためられたものである。この時期、覚馬は同志社臨時総長であったが、その就任を働きかけたのが蘇峰だとも読める。ただし覚馬の身体的事情からすれば、とてもその任に長く堪えられるものではなかった。それでも同志社の将来について蘇峰に助力を求めているし、覚馬の旧知の人々(政界・教育界の重鎮)にも襄亡き後の同志社について依頼状を投函したとある。この手紙から、覚馬の同志社に対する思いが強かったことがひしひしと伝わってくる。
 なお当時、覚馬は盲目だったので、自筆の書簡類は見当たらない。この手紙にしても、普通に考えれば誰か身内の人に代筆させたと思われる。私も最初、これを八重が代筆していたら面白いと思った。しかし文面を見ると、一字一字がいわゆる放ち書きになっており、これなら盲目の覚馬でも書けるのではないか、つまりこの書簡は覚馬の直筆ではないかとも思っている。その可能性はまったくないのだろうか。
 いずれにしても覚馬の手紙はほとんど残っていないようなので、これは非常に貴重な資料といえる。ここで覚馬は複数の人に依頼状を出しているのだから、受け取った側のいずれかに一通でも残っていれば、もう少し研究が進展するのではないだろうか。