🗓 2020年05月30日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

明治23年3月5日に書かれた八重の書簡が徳富蘇峰記念館に所蔵されているので、それを紹介したい。

 新島八重書簡(蘇峰宛)
追々暖和に相成リ申シ候処、先ハ/貴御家内様方御揃ヒ御機嫌(よく)
御渡光遊サレ候由、珍重に存ジ奉リ候。/(さて)先達テヨリ度々御心切様ニ
度々御書状下サレ、実ニ/\有難ク、/クリカヘシ/\拝見申シ上ゲ奉リ候。
トフヨリ一書差上、御礼申シ上ゲ度/ト存ジ居リ候ラヘドモ、何分筆取ル
勇気モ御座無ク、ツヘツヘ/\今日迄/延引ニ相成リ、御申訳モ無キ次第
御用捨成シ下サレ度願ヒ上ゲ奉リ候。/扨、亡夫生前ヨリ死後ニイタ
ルマデ、一方ナラヌ御世話様ニ/相ヒ成リ、実ニ拙筆ニ尽シガタク
御深情有難ク御礼厚ク/\申シ上ゲ奉リ候。/トテモカヘラヌ事ト存ジナガラモ
来シ方行末ノ事(など)ト思ヒ/トカク不覚ノ泪ニクレ居リ
申シ候。此頃ハ庭前ノ梅花咲ク/トモ香リ無キガ如ク、ウグヒス来啼ク
トモ其声アハレニキコエ、時事/物ニ心ヲイタエマシム(ばかり)ニ御座
候。実ニ月日ノ立ハ矢ノ如ク、四拾日/余リ相ヒ成リ候ラヘドモ、今ニユメノ
様ニ思ヒ居リ申シ候。兼テ病身ニ御座/候間、カクアラントハ覚悟ハ致シ
居リ候ラヘドモ、実ニ人生ノハカ/無キ事、セメテ今三トセモ此世ニ
ナガラヘ置キ度抔トクダラヌ事/斗思ヒ暮シ居リ申シ候。シカシ
ナガラ同志社ノ将来、又大学校ノ/事ヲ存ジ候ラヘバ、決テグヅ/\致シ居ル
時ニ御座無ク候間、是ヨリ勇気ヲ/出シ、亡夫ノ心ザシヲ相ツギ申シ度
候。私一家ノ事斗ニ御座候バ、如何/様ニモ致シ候ラヘドモ、一類ノ内ニ色々
ノ事共御座候ニハ、是ニハ少シ/困リ申シ候。シカシ此事ハ小事ニ御座
候間、御休心成シ下サレ(たく)広津氏モ/ナガ/\御トヾマリ下サレ候ラヘドモ、
此度ハ御帰社ニ相成、此後ハ/中々淋敷相成リ申シ候(はん)ト存ジ居リ申シ候。
愛友ト此後四五年ノ中ハ/東西別々ニ相ヒ成リ申スベク候ラヘドモ
世ノ中ニ同志社テフコトヲシラ/ルヽ折ヲ、ウドンゲノ花咲ク迄
待ツ思ヒニテ気ナガク待チ申スベク候。/一方ヲ思ヒ候トクラヤミ、又一方ヲ
考候トヅイブンタノシク御座候。/此後万事小妹ニ御ソヘ心ノ
程、ひとえニ/\願ヒ上ゲ奉リ候。当方ノ様/子ハ横田広津両兄ヨリ、一月
二十五日後ノ事ハ万事御聞キ取リ/下サレ度願ヒ上ゲ奉リ候。末筆ナガラ
御尊父母御家内ニ宜敷願ヒ上ゲ奉リ候。/延引ナガラ御礼(かたがた)御伺ヒ迄
早々申上ゲ奉リ候  不具
三月五日    新島八重子
徳富猪一郎様

尚々 此度御両兄ニ託ス亡夫ノ/書類差上ゲ申シ候。何分宜敷ク御願ヒ申シ上ゲ候。
其内ニ公義モ出東致スベク申シ候ラヘドモ、/小コブリノ分ハ尊兄斗御覧下サレ度。
大乱筆御ハンジ御覧下サレ度候也。/公義ハネヅミノフンナルヤ、
何レノ処ニモ罷リ出、困リ者ニ御座候。

  • 〔 注 〕
  • (1)「渡光」は「兎角(とこう)」のあて字か。
  • (2)「トフヨリ」は「と(疾)うより」で、もっと早くにの意。
  • (3)「ツヘ/\」は「ツイ/\」の福島方言であろう。
  • (4)亡夫襄はこの年の一月二十三日に永眠している。
  • (5)「月日ノ立」云々は襄が亡くなってからの日数のこと。
  • (6)「広津氏」とは八重の養女初子の夫広津友信のこと。
  • (7)「三月五日」は明治二十三年の日付。
  • (8)ここで「亡夫ノ書類」が蘇峰に託されているが、「小ぶりの分」は公義に見せないようにと読める。この書類には同志社の役員人事などが記されていたのであろうか。
  • (9)「公義」は新島双六(襄の弟)の養子で、新島家を相続した「新島公義」のこと。
  • (10)「小コブリ」の「コ」は衍字か。
  • (11)「公義ハネヅミノフンナルヤ」という悪口は、八重と公義の仲の悪さを物語っている表現として看過できないものである。
  • (12)「横田様」とは襄の教え子である「横田安止」のこと。

【解題】
 八重の手紙は襄が亡くなった年の3月5日に書かれたものである。内容は葬儀のお礼を兼ねて、今後の同志社への力添えを頼んでいる。その時の八重にとって、蘇峰の存在がいかに重かったかがわかる。
 この後、八重は亡くなるまでにかなりの数の書簡を蘇峰に書き送っているが、徳富蘇峰記念館には6通しか残されていない。恐らくどの時点かで、保存すべきものと破棄すべきものが取捨選択されたのであろう。
 文中にある「庭前の梅花咲とも香無如」が胸を打つ。さすがの八重も襄が亡くなった後、精神的に大きなショックを受けていたことがわかる。文中の「愛友」が蘇峰のことだとすると、かつて仇敵だった蘇峰は、この時既に八重にとって頼るべき大事な人に変化していることが読み取れる。