🗓 2020年11月07日
同志社女子大学特任教授
吉海 直人
吉海 直人
蘇峰が書いた『三代人物史』(読売新聞社)には、明治・大正・昭和の偉人が収められている。その中の一人に新島襄が含まれているが、その襄の記事の中で山本覚馬のことにも触れられている。蘇峰は同志社英学校に在学していた間に、襄や八重を介して覚馬にも接していたのであろう。
いずれにしても貴重な記事なので、参考資料としてここに紹介したい。記事は「新島襄と山本覚馬」という見出しの中に、「山本の素性」「維新大改革後の山本」「山本の家族」と三項目に亘って書かれている。まずは「山本の素性」は以下のように書かれている。
山本の素性 山本覚馬は、会津藩士であるが、其の中でも頗る毛並の変った一人であった。彼の家は武術の家であり、彼も亦専ら武道を修め二十四歳にして一切武術の皆伝を得た。二十五歳嘉永六年江戸時出て、蘭学を修め、且つ江川太郎左衛門、佐久間象山等の門に入り、殊に砲術に就ては得る所あり、自ら着発砲を発明した。二十九歳にして郷に帰へり、専ら兵器改良の説を称へ、其の為に一年間禁足せられた。然も彼は屈せず、遂に其の説行はれ、軍事取調べ役兼大砲頭取の要職に任じ、職俸十五人俸を給せらる、其の席右筆(書記の意)の上にあった。かくて元治元年二月京都在勤を命ぜられた。
山本が京都と、離る可らざる縁を結んだのはこれから始まった。当時会津藩主は京都守護職の重任を帯び、会津藩は殆ど其の全力を挙げて其の事に当った。而して山本は其の学ぶ所、其の貯へる所を挙げて、之を施すの好機会を得た。それは即ち元治元年禁門の変である。
即ち同年七月長州兵が、其の免罪を天朝に訴ると称して、京都に押寄せ来った。よって会津と薩摩の連合軍を始め、一ツ橋、越前等の諸兵は之と交戦した。当時会津の兵は蛤御門を守ったが、山本は其の門を開き、来り迫る長兵と戦ふ最中に、薩兵が来り扶け、遂に之を撃退した。而して長兵は又鷹司邸に拠り、既に主上御座所の真近に迫るの勢ひであった。越前彦根の兵それを防ぎ、甚だ苦戦に際し、山本は、得意の大砲を連発し遂にこれを却走せしめた。而して更に迫撃し、遂に遠く天王山に至り、敵兵をして其の嶮に拠る能はざらしめ潰散せしめた。此処に於て会津藩は、彼を用人の要職に挙げ、在京諸藩士と共に折衝の任に当たらしめた。
山本が京都と、離る可らざる縁を結んだのはこれから始まった。当時会津藩主は京都守護職の重任を帯び、会津藩は殆ど其の全力を挙げて其の事に当った。而して山本は其の学ぶ所、其の貯へる所を挙げて、之を施すの好機会を得た。それは即ち元治元年禁門の変である。
即ち同年七月長州兵が、其の免罪を天朝に訴ると称して、京都に押寄せ来った。よって会津と薩摩の連合軍を始め、一ツ橋、越前等の諸兵は之と交戦した。当時会津の兵は蛤御門を守ったが、山本は其の門を開き、来り迫る長兵と戦ふ最中に、薩兵が来り扶け、遂に之を撃退した。而して長兵は又鷹司邸に拠り、既に主上御座所の真近に迫るの勢ひであった。越前彦根の兵それを防ぎ、甚だ苦戦に際し、山本は、得意の大砲を連発し遂にこれを却走せしめた。而して更に迫撃し、遂に遠く天王山に至り、敵兵をして其の嶮に拠る能はざらしめ潰散せしめた。此処に於て会津藩は、彼を用人の要職に挙げ、在京諸藩士と共に折衝の任に当たらしめた。
次に「維新大改革後の山本」には、以下のように記されている。
然るに彼は眼病煩ひ、清浄厳院に療養中に、維新大改革は生じ、遂に伏見鳥羽の戦争となった。山本は会津藩が大義名分を誤らんことを虞れ、病を力めて、大阪より進み来る会津兵に諭すあらんとしたが、道塞がって通ぜず、更に山科より京都に入り、朝廷に向って会津藩の真意を奉上せんとした。然るに途上薩兵の為に囚はれ、既に殺されんとしたが、偶ま薩兵中に彼を知る者あり、彼が会津藩の名士であることを弁明した為に、一命を許され獄に投ぜられた。
彼は獄中「管見」と題し、議事院設立、学校教育、商工業の奨励、製鉄業、貨幣改鋳等の必要を説き、又暦法の改正を論じ、これを薩摩藩主島津公に提出した。然るに薩摩藩の要人小松帯刀、西郷隆盛等は之を一読し、其の達見に服し、待遇更に鄭重を極めた。之は明治元年五月頃のことである。かくて、閏五月彼が仙台藩邸の病院に移さるるや、始めて岩倉具視と相知り、明治二年に至り、朝廷は山本の用ゆべきを知り、抽て京都府顧問とした。
彼は獄中「管見」と題し、議事院設立、学校教育、商工業の奨励、製鉄業、貨幣改鋳等の必要を説き、又暦法の改正を論じ、これを薩摩藩主島津公に提出した。然るに薩摩藩の要人小松帯刀、西郷隆盛等は之を一読し、其の達見に服し、待遇更に鄭重を極めた。之は明治元年五月頃のことである。かくて、閏五月彼が仙台藩邸の病院に移さるるや、始めて岩倉具視と相知り、明治二年に至り、朝廷は山本の用ゆべきを知り、抽て京都府顧問とした。
長い引用となったが、これが蘇峰の語る山本覚馬の素性である。