🗓 2021年01月09日
吉海 直人
「板かるた」(下の句かるた)について、私は会津発祥説の正当性を述べたが、どうもそんなに単純ではないことがわかってきた。というのも、明治38年11月刊の増補版『百人一首かるた必勝法』に、
(111頁)
と述べられていたからである。同様のことは明治38年12月刊の『百戦百勝歌かるた博士』(大学館)にも、
(2頁)
と述べられていた。説明の中に木製札の危険性が指摘されているのも、遊び方の豪快さを物語っていて面白い。
どうやら当時のかるた取りは、市販されているかるたを購入するだけでなく、手製(自家製)の紙や木のかるたも使っていた。木製札の作り方は、明治36年12月刊の川村花暁著『歌かるた取り方と百人一首講義』(大学館)末尾の「牌札の製造法」に、
(199頁)
と出ている。当然のことだが、活字の「標準かるた」ができる前の競技は、手書きにしろ印刷にしろ、すべて変体仮名で書かれたかるたで行われていた。
それとは別に、山口吉郎兵衛氏の名著『うんすんかるた』(リーチ)にも板かるたについて、
と、会津だけでなく津和野(山口県)にもあったことが記されている。ここに名前のあがっている小金井喜美子氏は森鷗外の妹である。そこで彼女の書いた『森鷗外の系族』(岩波文庫)に当ってみたところ、
(「不忘記」35頁)
と出ていた。ただし津和野では板製だけでなく、紙製と併用していたようである。しかも薄板とあるので、津和野の板かるたは必ずしも下の句かるたではなかったように思われる。
そのことについて、
(117頁)
とも解説されている。薄板は優雅な取り方でなければ破損の恐れがあるので、競技かるたが流行して以降姿を消した、あるいは分厚くなったというのである。しかしながら会津の板かるたは、それ以前から分厚い朴の木製だった。そうなるとこの説明は、下の句かるた取りではなく、一般的なかるた遊びだったのであろう。一般的なかるた取りに薄い板かるたが用いられたことは、江戸時代の薄板かるたが伝存していることからも納得できる。
また金沢でも下の句かるたで遊ばれていたことがわかった。なんと満州で開催された第一回かるた大会の優勝者・米村甚次郎のインタビューに、
(満州日日新聞明治41年1月16日)
と書かれていたのである。まさか満州の資料に出ていたとは、今まで気づかなくても当然であろう。これでまた少しだけ下の句板かるたの資料が増えた。