🗓 2021年08月21日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

日本語の慣用表現の中には、間違って使われていると思われているものが少なくありません。例えば「的を射る」と「的を得る」はいかがでしょうか。みなさんはどちらが正しいと思いますか。普通には「的を得る」は誤用とされているのですが、既に江戸時代の『尾張方言』という本に「的を得ず」とあるので、単純に誤用とは断言できそうもありません。
 もともとこの表現は弓に関わるものですから、武士階級の中で生まれたものと思われます。ですから使用範囲は狭かったはずです。それが庶民に広がったことで、誤用が生じたのかもしれません。ただし必ずしも誤用ではなく、そこに方言が紛れ込んでいる恐れもあります。
 政権が京都から江戸に移ったことで、関東の言葉が主流になっていきました。さらにそこに東北方言などが流入することになります。かつて会津藩出身の新島八重について調べていた際、「い」と「え(ゑ)」の区別が曖昧であることに気付きました。それを当てはめると、「いる」と「える」はたちまち相通してしまいます。つまり本人は「射る」のつもりで「える」と発音したものが、相手には「得る」と伝わり、そのまま表記された可能性もあるわけです。こうなると単なる誤用とはいえませんね。
 他にも考えられることがあります。中国から伝来した「正鵠を得る」という表現と混同された可能性もあるからです。逆に「的を射る」が影響を与えて、「正鵠を射る」という誤用も生じているようです。あるいは「当を得る」との混同も考えられます。
 実はこの「的を得る」表現を最初に誤用としたのは、『三省堂国語辞典』の第三版(1982年)だとされています。それが第七版(2013年)に至って誤用云々が削除され、改めて正しい使い方として掲載されました。三省堂は自らの誤りを訂正したのですから、これぞ「一日三度反省する」という三省堂の名にふさわしい行いでしょう。ただしそれによって読者が振り回されたことも事実です。
 それともう1つ、「汚名挽回」「汚名回復」という表現も三省堂絡みであげられます。みなさんの中には即座にそれは間違いで、「名誉挽回」「名誉回復」あるいは「汚名返上」が正しいと答える方がいらっしゃるかと思います。これについては1976年に出された土屋道雄著『死にかけた日本語』(英潮社)で指摘されており、それ以来誤用とされるようになったとのことです。
 ところが用例を調べてみると、まず「不名誉挽回」が出てきます。同様に「汚名挽回」の使用例も少なくないことがわかりました。なんと吉川英治の『宮本武蔵』にも、「一時の汚名を将来の精進で挽回してくれ」と出ていました。これは「汚名」の状態に戻す(「汚名」を取り戻す)のではなく、「汚名」を受けたものをそれ以前の普通の状態に戻す、あるいは元の状態に戻す意味だったのです。類似した例に「疲労回復」や「劣勢挽回」があります。逆に「汚名返上」の古い使用例は探しても見当たりませんでした。もちろん「汚名をそそぐ」なら普通に使われています。
 これについては、2004年に出された北原保夫著『問題な日本語』(大修館書店)で、誤用ではないという反論が示されました。そんなこんなで『三省堂国語辞典第七版』では、「汚名挽回」を誤用ではないとあえて訂正・明記したのです。もちろん辞書が訂正したからといって、それで正しさが証明されたわけではありません。すぐに便乗するのではなく、あらためて用例を調査したり、徹底的に議論した上でないと決められないからです。それにしても三省堂の辞書の影響力は大きいですね。