🗓 2022年02月17日
吉海 直人
「荒城の月」に関しては、既に二度もコラムで書いています。それでもまだ謎が残っていたので、もう一度書くことにしました。今回は八重さんとの関わりというより、土井晩翠と「荒城の月」そのものが対象になります。
まず最初の謎は曲名にあります。みなさんは始めから「荒城の月」だったと思っているでしょうが、実は明治34年に『中学唱歌』に掲載された時には「荒城月」で、「の」が付いていなかったのです。その歌詞をあげておきます。
第一章
春高楼の花の宴 めぐる盃かげさして
千代の松が枝わけいでし むかしの光いまいづこ
第二章
秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の数見せて
植うるつるぎに照りそひし むかしの光いまいづこ
第三章
いま荒城のよはの月 替らぬ光たがためぞ
垣に残るはたゞかつら 松に歌ふはたゞあらし
第四章
天上影は替らねど 栄枯は移る世の姿
写さんとてか今もなほ 嗚呼荒城のよはの月
もちろん旧仮名遣いです。曲名は「荒城月」とありますが、読む時には「ノ」を補って「くわうじゃうのつき」と読んでいたのでしょう。それが再版になると、目次と歌詞は「荒城月」のままなのに、曲譜の題が「荒城の月」と改められています。以後は「の」入りの題が踏襲されたというわけです。
次に第二の謎ですが、なんと『中学唱歌』には、初版以降ずっと作詞者・作曲者の名前が記されていませんでした。そういう方針だったのでしょう。そのため晩翠は、『天地有情』など自らの詩集に「荒城の月」を入れていません。作曲者の方は、大正期に出版されたセノオの楽譜に「瀧廉太郎旋律、山田耕作改編」、あるいは「瀧廉太郎原作、山田耕作改編」と記されています。しかしそこにも作詞者・土井晩翠の名前はありません。ということで長らく作詞者は不明だったのです。
昭和5年になって、岩波文庫から『晩翠詩抄』が発行されました。これまでずっと伏せられていた「荒城の月」ですが、この本に「天地有情より」としてようやく掲載されました。もちろんこれ以前に発行されている『天地有情』に、「荒城の月」は収録されていません。増補されたのはこれ以降の版です。
はじめて収録された「荒城の月」には、
という注記も付けられています。ここに至って「荒城の月」の作詞者・作曲者がようやく出揃いました。
それだけではありません。岩波文庫版を見ると、各章の末尾に句点が施されていることに気付きます。また第三章の一句と三句には読点も付いています。みなさんは句読点のついた「荒城の月」をご覧になったことがありますか。おそらくほとんどの人はご覧になっていないと思います。要するに曲の歌詞としては句読点なしで表示されており、それが曲から離れて詩として鑑賞される際には、句読点が付いているというわけです。「荒城の月」にはこんな微妙な表記の違いがあったのです。これが第三の謎でした。
次にもっと微妙な清濁の問題もありました。それは第三章の「かつら」をどう読むかということです。古文では濁音を表記しませんが、読む際に「かずら」と濁って読むことは普通にあります。ところが晩翠は、清濁が表記されている本においても、「かつら」(清音)を貫いていました。
どうやら仙台地方の方言として、「蔦葛」を「ツタカツラ」と発音していたようなのです。ですから晩翠にとっては「カツラ」で正解というか、何の問題もなかったのです。ところが「荒城の月」が全国で歌われるようになると、清音になっていることについての問い合わせが殺到しました。このままでは「カツラ」を「桂」あるいは「鬘」と誤解される恐れがあります。そこでやむなく晩翠は、ついに大正15年に「つ」に濁点を打ちました。こうして現在では、何事もなかったかのように「かづら」と表記されているのです。これが第四の謎です。
さて、晩翠の「荒城の月」が有名になると、仙台ではその記念碑建立の動きが起こりました。ただ第二次世界大戦中だったことで、資金の調達が難しかったらしく、戦後も延び延びになっていました。そうこうするうちに会津若松がすばやく動き、あっという間に鶴ヶ城跡に記念碑を建立してしまいました。それは戦後間もない昭和22年のことです。それに対して仙台が青葉城跡に記念碑を建てたのは、昭和27年になってからのことでした。計画はずっと前からあったのに、会津若松に5年も遅れをとってしまったのです。悔しがった人もいたでしょうね。これを第五の謎としておきましょう。
いかがでしたか、「荒城の月」に謎がたくさんあること、おわかりいただけましたか。