🗓 2022年05月07日
吉海 直人
「いづれあやめかかきつばた」という慣用句を耳にしたことがありますか。これは甲乙つけがたい美人を形容する表現とされていますが、探しても出典(初出)が見つけられません。おそらくもととなっているのは、『太平記』巻21に見える「何れあやめと」でしょう(『源平盛衰記』巻16・『沙石集』巻5にもあり)。これは鵺を退治した源三位頼政が、鳥羽院から褒美としてあやめの前という美女を賜る際、ずらりと並んだ美女の中からあやめの前を特定できず、困って詠じた歌の中に使われている表現です。
ただしこの歌は『源三位頼政集』に出ていないので、後世に創作されたものと思われます。これによって「いづれあやめ」までの出典は確定したのですが、「かきつばた」との結びつきは見当たりませんでした。となるとこのいい方は、かなり新しいことになりそうです。というより「いづれあやめ」は、大勢の美女が勢ぞろいしているのに対して、「いづれあやめかかきつばた」は、二人の美女の美しさを形容しているように受け取れます。もちろん区別(優劣)など付けられるはずはありません。
これを前提にして本題に入ります。「いづれあやめかかきつばた」は、二つの花が美しいことを前提にして、それを美女に譬えている慣用句ですね。その場合、「あやめ」と「かきつばた」は区別がつかない程よく似ている花として例示されていることになります。それに異を唱える人がいないとすると、これは大きな間違いを犯していることになります。というのも、古くは「いづれあやめ」であって、「かきつばた」と比較されることはなかったからです。というより、古典の「あやめ」と「かきつばた」は、剣状の葉こそ似ていますが、花はまったく違っていたので、見間違う(比較される)ことなどなかったからです。
それにもかかわらず、後世において「あやめ」と「かきつばた」が似ているとされたのは、古典と近代で「あやめ」自体が変容しているからでした。現在の「あやめ」はアヤメ科アヤメ属の植物を指しており、だからこそ「かきつばた」(アヤメ科アヤメ属)と似た花になっているのです。ところが古典の「あやめ」は今と違ってサトイモ科(あるいはショウブ科)の植物であり、花は蒲の穂に似た美しくもなんともないものでした。
それは同類の「しょうぶ」も同様です。古典では「あやめ」と「しょうぶ」は同じもの(別称)で、和歌に詠むときは「あやめ」あるいは「あやめ草」、端午の節句に用いる時は「しょうぶ(菖蒲)」と使い分けられていたのです。この植物は葉に香気があって、その香りで厄払いをしたり病気を治したりしました(薬草)。ですから花の美しさなど歌に詠まれていません。
ところが江戸時代になると、美しい花を咲かせる「花菖蒲」という品種が出現したことで、むしろこちらが「菖蒲」の代表となっていきました。それに合わせるかのように、「あやめ」もアヤメ科の植物に置き換えられてしまい、遂に「あやめ」と「かきつばた」と「花菖蒲」が似たような花を咲かせるものとして並び称せられるようになったのです。「いづれあやめかかきつばた」は、そうなってから登場したものということになります。
ですから古典としては、「花菖蒲」を除外することができます。またアヤメ科の「あやめ」も排除できます。アヤメ科では薬用効果が望めないからです。そうして残ったのは、サトイモ科の「あやめ(菖蒲)」とアヤメ科の「かきつばた」でした。この「かきつばた(杜若)」は、『万葉集』に7首詠まれているだけでなく、『伊勢物語』第9段(東下り章段)に、
と詠じられています。ただしこれは言語遊戯(折句)であり、普通に「かきつばた」の花が美しいとされているわけではありません。というより「かきつばた」は貴族好みではなかったのか、平安時代にほとんど歌には詠まれていないのです。
それに対して「あやめ」は、『万葉集』に12首も詠まれているだけでなく、『古今集』にも、
と詠まれています。ただしこの歌は同音の序詞が主眼で、やはり花(の美しさ)は詠まれていないことがわかります。むしろ「根合せ」などでは長寿を意味する根の長さが評価されていたようです。
いかがですか、古典と現代とで「あやめ」の指す植物が違っていたこと、そのため古典では「あやめ」と「かきつばた」の花が比較されることなどなかったのに、後世になって「あやめ」がアヤメ科に変わったことで、現在のように花の美しさを比較されるような慣用句が登場していること、おわかりいただけましたか。
どうやらこのことが古典和歌の翻訳においても、誤訳される最大の要因になっているようです。古典ではサトイモ科の「あやめ」として翻訳しなければならないのに、ほとんどの翻訳では現代的にアヤメ科の「あやめ」(アイリス)として翻訳(誤訳)されているからです。しかもその間違いに、誰も(日本人も)気づいていなかったのです。外国にサトイモ科の「あやめ」はないのでしょうか。翻訳を志す人は語学力だけでなく、古典文化にも精通する必要がありそうです。