🗓 2022年05月14日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

作曲家・海沼實は、「里の秋」が大ヒットした翌年(昭和21年)、もう一度同じようなことを体験しました。今度は東京の本局と静岡県伊東市で放送されるNHKラジオ「空の劇場」という二元放送の番組で、例の川田正子に歌わせる曲を依頼されたことが発端です。8月25日が放送予定日でしたが、その前日になってもご当地伊東にふさわしい曲ができません。というより適当な歌詞が見つかりませんでした。
 たまたま12歳の童謡歌手・川田正子を取材に来ていた作詞家・加藤省吾が富士市出身であることを知り、地獄で仏とばかり加藤に作詞を懇願します。加藤は既に「かわいい魚屋さん」がヒットしていた作詞家でした。
 しかしもう時間的余裕はありません。明日放送する曲の歌詞を、その場ですぐに書いてくれという無茶な依頼でした。しかも海沼から加藤に対して、伊東の丘に立って海には島と船が浮かび、船には黒い煙を吐かせてほしいという注文まで付いていたのです。
 「里の秋」の大ヒットを知っていた加藤は、幼い頃遊んだ故郷のみかん畑を思い出して、なんとか書き上げました。ちょうどその頃、サトウハチローが作詞した「リンゴの唄」が流行していたので、リンゴならぬみかんの実を題材にすると、二番煎じになってしまう恐れがあります。そこであえて実ではなく、季節外れの花をメインに書きました。
 なんと加藤は、12時半から13時までのわずか30分ほどで、三番まで仕上げたそうです。それが有名な、

 一番 みかんの花が咲いている 思い出の道丘の道
    はるかに見える青い海 お船がとおく霞んでる
 二番 黒い煙をはきながら お船はどこへ行くのでしょう
    波に揺られて島のかげ 汽笛がぼうと鳴りました
 三番 いつか来た丘母さんと 一緒に眺めたあの島よ
    今日もひとりで見ていると やさしい母さん思われる

でした。歌詞を見ると、見事に海沼の注文が反映されていることがわかります。

今度は海沼の番です。完成した詩が書かれた紙を受け取ると、川田正子を連れて伊東行きの列車に乗り込み、列車の中でその詩に曲を付けなければなりません。しかし小田原を過ぎても、まだ曲想が浮かびません。熱海に近づいた頃、窓外のみかん畑の景色を見ているうちに、ふと頭にメロディの一節が浮かびました。こうなればしめたものです。後は一気呵成に筆が進み、伊東駅に着く前に曲が完成しました。その間わずか30分でした。
 名歌とされる「みかんの花咲く丘」は、作詞も作曲もたった30分でできた曲だったのです。なお海沼の頭に浮かんだのは、ヴェルディ作曲のオペラ「椿姫」の中の「乾杯の歌」だといわれていますが、あまりピンときません。それよりも弘田龍太郎作曲の「雲に寄せる」(昭和17年)という歌の方がずっとよく似ているので、一度聞き比べてみてください。
 さて24日の夜、海沼はピアノもない伊東のホテルで、川田正子にできたばかりの曲を練習させ、翌日にはぶっつけ本番で臨みました。さすがに川田正子は、まだ歌詞を完全には暗記できておらず、名刺の裏に書かれたカンペを見ながら歌ったそうです。こうして伊東市立西国民学校(現在の西小学校)の講堂から、全国に「みかんの花咲く丘」が流れました。すると、「里の秋」の時と同じようにNHKの電話が鳴り響き、大反響を呼んだのです。用意周到に作られた曲ではなく、一回限りの放送用としてギリギリのところで間に合った曲でしたが、むしろそういった時の方がいい曲ができるのかもしれません。この「みかんの花咲く丘」は戦後最大のヒット作品・日本を代表する童謡として、今日まで長く歌い続けられています。
 なおこの歌にはもう一つの秘密がありました。それは三番の「やさしい母さん」という歌詞です。その「母さん」が、一時「姉さん」に改訂されました。その理由は、戦争で母を亡くした子供がたくさんいたからとのことです。まだ人々の心は敗戦に打ちひしがれていたのでしょう。「姉さん」だったら亡くなったのではなく、お嫁に行ったと解釈できるというのです。でもこの歌は、「母さん」の方がずっといいですよね。ですからその後、「母さん」に戻ったのはいうまでもありません。