🗓 2022年12月20日

( 新井田栄子さん提供 )

NHKの大河ドラマの主人公ともなるとそれに絡んだ本が雨後の筍のように出版されるの常である。東北大震災後のヒロインに選ばれたのは会津藩出身の新島八重であった。

私の家には八重の遺墨が数点あり、子供のころから新島八重の名を知っていたが会津若松在住の方のほとんどが山本八重・新島襄の名を知っている人はいなかっただろう。無名なだけに八重に関する資料はあまり残されていなかった。

仏壇の箱の中から出てきた八重直筆の手紙から私の曽祖父岩澤庄伍と八重の交流とそれにつながる若松教会牧師兼子重光の手紙などから我が家と新島八重の交流が浮かび上がってきた。会津で新島八重との交流が残されているのは、我が家のみではないかと使命感のようなものが「不一・・・新島八重の遺したもの」を執筆することになった。雨後の竹の子ように出版された本の中に目新しいものを探し出すのは困難だった。手前味噌になるが「不一」には新発見の内容が20以上あった。例えば新島八重の養女初子の母は会津藩公用人手代木直衛門の2女中枝、父は上杉謙信の重臣甘粕備後の子孫である。会津藩降伏時に手代木直衛門が秋月悌次郎とともに使いに行った米沢藩の重臣の子孫である。敵味方に分かれた会津藩と米沢藩であるが藩士同士の家族で戊辰戦後に婚姻関係が結ばれていた。

一番の第一級資料は会津会会報であった。鶴ヶ城開城後会津藩士は惨憺たる生活を余儀なくされたが、山川健次郎などを中心として郷土の親睦会を結成し毎年会報を発行している。会津図書館に行き明治期から昭和初期の八重の没するまでをすべて読了した。館外持ち出し禁止なので館内で何日間かかけて読み込み必要な部分はコピーした。「不一」にも当時の会津会幹事長の了解を得て転載させていただいた。

その中に京都會津会幹事秋山角弥の「京都通信」が寄稿されていた。その中に新島八重・山本覚馬兄妹がかなり出ていたのである。

その中に京都會津会恒例の「下の句を読み、下の句を取る」会津独特の板カルタ遊びが紹介されていた。かるたとは百人一首のことで日本かるた協会のもと現在でも競技カルタが行われている。

八重の生きた時代はまだ封建色が強く「女子と席を同じゆうせず」で男女一緒に遊戯をするなど許される時代ではなかった。ところがカルタ取りだけは許された。同志社の同窓会報にも残されている。カルタを取る手が異性の手に触れ胸がときめきしたことなどが浮かび上がってくる。八重は同志社の学生を呼んでよくカルタ会を開いた。ただし基本的には薩長出身の学生は呼ばなかった。さもありなんである。一度薩摩出身の学生を呼び襄の知るところとなり喜びの手紙が送られてきた。カルタに招待するにあたり八重はあんこ餅など準備し、食べ物を用意した。会津出身の貧しい学生の応援でもあったのだろう。

八重や京都會津会のカルタは「下の句を読んで、下の句を取る。」会津独特の様式である。現在は会津若松市内でその様式で競技することは絶滅している。老齢の方から70歳以上の人が方式を聞いているのみだ。「私の時は下の句を読んで下の句を取った。」と。

ところが北海道では「下の句カルタ」が文化遺産となった。本家本元の会津で絶滅したと思われたのがガラパゴス諸島のように北海道で息づいていた。

そのことを会津カルタ協会の重鎮に披露したところ、「会津のカルタは上の句を呼んで下の句を取る。文化庁の問い合わせにもそう答えた。」の一点張りでらちが明かない。北海道の「下の句カルタ」の役員が源流を会津に来て調べて、下の句カルタは会津から派生したと認定しているのに、頑迷固陋の人物が会津にいるのは残念だ。

会津若松市史には初版は正しかったが、改訂版で「下の句を読んで上の句を取る。」とひねくれものの所業に間違えるように書いてあった。市の文化課に間違いを指摘したところ、次の改訂版で訂正する予定になっているそうだ。

八重が愛した会津独特の「下の句カルタ」に関しては史実に忠実であるべきで間違った解釈に容赦は出来ない。「100歳以上の叔母さんたちは下の句を読んで下の句を取っていた。」との板カルタ愛好家の証言もある。

(文責:岩澤信千代)