🗓 2022年12月21日
顕彰会のHP編集雑記を見て会津の歴史に詳しい昭和女子大学講師の遠藤由紀子先生(来年の顕彰祭講師)から情報が寄せられた。東大・京大・九州大総長を歴任した山川健次郎博士の3女東照子さんの文章である。
昭和37年会津会会報新春号に寄稿されたものである。題は「会津もん」である。
その中に板カルタの記述があった。
「年賀の方も大方お帰りになってから決まってカルタ取りがはじまる。これには母も加わってくれて賑やかな事だった。第六天の奥方様(旧会津藩主松平子爵邸は第六天町にあった)のお筆になる木札のカルタは何の木でつくられたのか実によく飛び、幼心にも本当に美しく見えたながれるようなお筆の跡が今も目に浮かぶようになつかしく「待ったり」と叫ぶ声と共に、ついこの間のように思い出されるのである。この会津風のカルタ会は決して上の句は読まない。下の句をよんで下の句をとらせるのである。そして札は木である。よそのおうちの普通の紙のカルタが私には不思議のように思われてならなかった少女時代であった。」
山川健次郎家の正月の風景の一コマである。ここでも会津の板カルタは下の句カルタで今の北海道で盛んなカルタと同じである。
文中の「まったり」の掛け声も気になる。私が見つけて取ったという合図か。
もし北海道の下の句カルタ会でこの言葉が今も使われているようだったら、会津源流の決定的な証拠になる。吉海先生に調べていただきたいものだ。
この本の著作者は、東照子となっており昭和61年9月14日発行である。「おわりに」は次男である東健彦順天堂大学理事長が書いている。戊辰戦争の時に会津に来援して戦傷者を看病した幕医松本良順(養子になり苗字が変わった)のちに初代の日本帝国陸軍軍医総監になったのであるがその実父佐藤泰然は順天堂大学の創始者なのである。なんと会津とかかわりが続くものである。
そして著書名が「吾亦紅」とある。私は何と読むか知らなくてネットで調べたら、「われもこう」と読むらしい。杉本真人の歌まである。
八重の幼馴染日向ユキの想いを書いた本は「万年青(おもと)」であった。
ユキの時代会津藩の女性は気高く、勇敢に敵と戦った。育った時代は照子は鶴が城落城後の会津藩士の娘と違いはある。だが二人とも残した著書名は同じく読むに難解な植物名である。
照子の他の文章を読むと「会津もん」の心意気を山川健次郎夫妻から幼少時から訓育されてきたのだなあと改めて感動した。
(文責:岩澤信千代)