🗓 2023年03月11日
吉海 直人
私の住んでいる奈良では、三月になると至る所に「馬酔木」の花が咲き乱れています。ただしこれは奈良だけの話かもしれません。というのも堀辰雄の『浄瑠璃寺の春』の出だしに、
とあるし、また『辛夷の花』の出だしも、
となっています。それだけでなく『十月』や『死者の書』にも出ているので、堀辰雄は「馬酔木」をもっとも愛した作家の一人だといえそうです。実際、スズランに似た壺のような形をした白い花がずらっと並んでいて、しかもほのかに甘い香りがします。とはいえ沈丁花に比べて色も香も劣っているのに、どうして惹かれるのでしょうか。
その理由の一つには、『万葉集』に「馬酔木」を詠んだ歌が、
池水に影さへ見えて咲き匂ふ馬酔木の花を袖にこき入れな(4512番家持)
など十首も入っていることがあげられます(「馬酔木なす」は「栄ゆ」の枕詞)。『万葉集』へのあこがれもあって、きっと奈良の「馬酔木」を見たくなるのでしょう。ところが平安時代になると急に人気がなくなったようで、「馬酔木」は勅撰八代集に一首も詠まれていませんし、『枕草子』や『源氏物語』にも引用されていません。
さてここで質問です。みなさんは「馬酔木」をどう読んでいますか。「あせび」ですか「あしび」ですか。『万葉集』の万葉仮名を見ると「安志妣」「安之婢」とあるので、「あしび」と読まれていたことがわかります。それが徐々に「あせび」も許容されるようになり、今ではむしろ「あせび」の方が主流になっているようです(他に「あしみ」「あせみ」「あせぼ」ともいいます)。ただし短歌雑誌や俳句雑誌の『馬酔木』は「あしび」でしたね。
では「馬酔木」が何故「あしび」と読まれるのか、ご存じでしょうか。一般には「馬酔木」には毒があって、それを馬が食べると酔ったような症状が出るからだとされています。私もそれを信じていたのですが、奈良へ来て以来、ニュースで馬が「馬酔木」を食べて中毒症状を起こしたなんて話は聞いたことがありません。
第一、奈良公園に「馬酔木」が多いのは、鹿が食べないからだそうです。動物だって学習能力があるので、間違って食べることなど考えられません。一説によると、古代に中国から渡来した人たちが、馬を携えてやってきました。中国の馬は「馬酔木」に接したことがなかったので、毒があるとも知らずに食べて死んだそうです。それを教訓にして、馬に食べさせたら危険だということを知らせるために、あえて「馬酔木」という漢字にしたのだというのです。出来過ぎた話ですが、これなら納得できますね。
ついでに「あしび」の語源ですが、よくいわれているのは「足痺」(あししびれ)・「悪し実」(あしみ)が訛ったものだという説です。正解はわかりませんが、どちらも毒性のあることを語源にしています。それもあって萩谷朴氏は、「馬酔木」こそは枕詞「あしびきの」の語源だとされています。ただし広く流布してはいないようです。
もうしばらく植物の勉強を続けましょう。「馬酔木」は何科に属する植物だと思いますか。正解れはツツジ科です。どうやらツツジ科には毒のあるものが多いようです(シャクナゲにも毒があります)。普通、植物の毒はうまく用いれば薬になるのですが、どうも「馬酔木」は薬用には不向きのようです。その代わり、アセボトキシンなどの毒を有効活用して、殺虫剤として活用されてはいます。
平安時代には歌に詠まれなくなったといいましたが、わずかながら、
みま草は心して刈れ夏野なる茂みのあせみ枝まじるらし(藤原信実)
などと詠まれています。ただしおわかりおように美的なものとしてではなく、やはり毒があるので馬が食べないように注意しろという警告を含む内容になっています。
「馬酔木」はもちろん外国にもあります。学名は「ピエリス・ジャポニカ」です。ピエリスはギリシャ神話の女神の名前です。英語名はなんと「アンドロメダ」になっています。比較的暖かい地方に自生しており、普段目にするのはこじんまりしたもの(常緑低木)ですが、中には四メートルを超すものもあります。詩的情緒が感じられるのか、有毒なのに飲食店の名に多いということです。