🗓 2023年06月03日
会津若松市の本道から少し入ったところに野口英世洗礼地の看板があるところがあります。会津藩医山内春瓏(しゅんろう)の旧居跡です。この藩医の孫が山内ヨネです。ある講演に行ったときに「山内ヨネを知っている人がいますか。」と問いましたら「野口英世の初恋の人」と女性からすぐに返ってきました。
そうなんです。野口英世の伝記を読んだほとんどの人が知っています。
最近解かったことですが、実は山内春瓏はナイチンゲールにも擬せられる瓜生岩子の叔父さんなのです。瓜生岩子の母親の妹が山内春瓏の妻(叔母さん)だったのです。瓜生岩子はここで看護を学んだのです。それで戊辰戦争の時に敵味方なく戦病者を看護できたのです。
そして、農民の子で13歳で医学を志した古川春英が初めに学んだ先生が山内春瓏なのです。春英は1831年、岩子は1829年生まれの2歳年の差、検証できないのですが春英と岩子は同じ時期に学んでいたかもしれないのです。ちなみに春英の息子源次郎と野口英世は北里伝染病研究所(現東大医科研)の同級生です。湯川村郷土史研究会主催で講演していますのでそちらはHP動画でご覧ください。わずか40歳で亡くなり大をなすことはできませんでしたが戊辰戦争後自分で教科書を書き写し診療所(河東島にあった)の近くの子供たちに学問を教えました。
一方で野口英世を振った山内ヨネさんはどうなったかというと勉強して女医さんになり、医院を開業しました。どういうわけか営業に来た青年と恋仲になり、病院経営に見向きもしなくなり廃業になったと伝えられています。いわゆる男狂いになったようです。
もし、野口英世の妻になっていたら「ノーベル賞級の医学者の妻」になったかもしれません。もっともその時は野口英世が妻を愛しすぎて研究に身が入らなくなった可能性もあり、こればかりは誰にもわかりません。
歴史のイフを語るのは無謀だと言われる所以です。藤井王将が8冠を成し遂げるでしょうが、敗者が「あの時こういう手を打っておけば勝てた」と言っても勝負がついているのだからしょせん無理な話なのです。
話はまだ続きます。瓜生岩子が猪苗代で看護の講演をしました。野口英世の母シカさんもその聴講生の一人でした。瓜生岩子の講演を聞いてシカさんは一念発起し、産婆さんの資格を取ったのです。当時の日本は貧しく「間引き」と言って幼子を手にかけていました。瓜生岩子は叔父の山内春隴と同じく間引きには大反対でした。保科正之の考えにも通じるものです。少子化対策に岸田首相は異次元の予算計上で国民の人気を取ろうとしていますが、抜本的な解決策でしょうか。子供の成育より結婚しない若者たちの存在も問題です。結婚人数を増やさないで少子化対策などあり得ません。金を出すから子供をつくれとは短絡的なのです。
(文責:岩澤信千代)