🗓 2023年06月03日

「薪を背負って、火中に入るがごとし」と会津藩最後の藩主松平容保に京都守護職就任をやめるよう諌言した会津藩筆頭家老西郷頼母と西郷隆盛は遠縁だったのか?苗字が同じ、尚且つ西南の役で隆盛の仲間とみなされ神社の宮司を解任された頼母の関係は気になるところである。

会津坂下町の旧家佐瀬家に隆盛が頼母にあてた書状がある。

金20両を隆盛が頼母に送っている。注意書きにもあるが貨幣単位が西南の役の5.6年前に替わっているので疑問である。

西郷頼母家はもともとは保科正之の血縁であり保科を名乗っていた。それゆえに辞世の句「あいつねの遠近(おちこち)人に知らせてよ 保科近悳今日死ぬるなり」である。

最後は保科近悳(ちかのり)を名乗った。それで隆盛と頼母はあまり関係ないと思われるのだが、先祖は九州の豪族、菊池氏と二人は繋がっているらしい。詳しく調べる学識はないのでわからないが書状の内容のように隆盛が滅藩になった松平家の家老頼母に同情して金品を送った可能性も完全に否定できない。

これも歴史の謎である。「佐瀬家文書」(佐瀬渉著)に掲載された書状を載せますので興味のある方はしらべてみてはいかがでしょう。

(文責:岩澤信千代)