🗓 2025年03月28日
戊辰戦争で敗北した後、会津には占領軍が民生局の名前で施政を行った。藩主がいなくなり無政府状態になり農民の不満が一気に暴発し、やーやー一揆などが領内を混沌にしたのもこの頃である。旧会津藩士が糾合して反旗を翻すかもしれないと新政府は会津藩の旧藩士20名ほどは地元に留め置いた。その中に町野主水という硬骨の武士がいた。
その葬式は遺言に従い息子武馬が取り仕切った。「標旗、提灯、抜身の刀、抜身の槍それから死骸、僧侶、家族の順と、参列者は全部徒歩たるべき事」であった。そしてお棺に入れて葬れなかった旧藩士たちと同様遺体を菰(こも)で包み、馬に引かせて墓所に埋葬しろ」というものであった。これを事前に察知した警察は、破天荒の葬列にいちゃもんをつけてきた。しかし、親の指令に忠実であった武馬が警察と交渉し、お棺に入れたうえで菰で包むことで落着した。戒名は「無学院殿粉骨砕身居士」とせよであった。
しかし武馬は遺命には従わず寺の住職の付けた「武孝院殿顕譽清心清居士」にした。
戊辰50年の式典が城跡で執り行われた時のことである。途中雨が降ってきたので市長が主水に向かい「お下がりください。天幕にお入りください」と言ってテントに主水を引き入れようとした。主水は市長に向かい「武士に向かって下がれとは何事か。」と一喝。仕方なく市長はじめ皆がびしょぬれになりながら式典を続行したという。
会津会現会長町野英明氏はその曾孫である。ミュージシャンであちこちで演奏をされておられる。どちらかというと柔和で軟派に見える。会津藩士の霊を慰める慰霊祭が会津弔霊義会主催で阿弥陀寺・飯盛山で毎年4月と9月に執り行われる。必ず町野会長は出席されるので毎年ご挨拶はしている。会津弔霊義会を作ったのも町野主水である。七日町の阿弥陀寺にある戦死墓には千数百名が合葬されている。
(文責:岩澤信千代))