🗓 2023年10月03日

今日電話があり悲しみにおののいた。何物にも代えがたい友人の死亡の知らせである。「1年前に父が死んだ」と息子さんから電話があった。大阪に住む彼とはたまに電話していた。そういえばここ1年以上話していなかった。便りのないのは無事の知らせというがまさかこんな知らせが来るとは。茫然自失である。

前にこの欄に書いたのだが私の結婚式に会津にまで来てくれた大学の友人の死の知らせである。湯出原君という。結婚式前夜、我が家に泊まったのだがトイレが遠いので蔵座敷の2階から放尿したものがいる。湯出原君と書いたら「そんな非常識なことを俺はしない。」と反論された。犯人ははK君であり、K君は悪びれもなく自供し犯人は特定できた。証拠の写真があるはずだが犯人が自供したので写真を探すことはしなかった。

彼の曽祖父は頼山陽の高弟であった。一度彼の故郷広島県福山市の実家を訪れた時に「湯出原先生の碑」と書いた大きな石碑を見せてもらった。曽祖父は菅 茶山と同等クラスの大学者であった。

実家ではご母堂が心のこもった料理を提供してくれた。黒鯛(ちぬ)の塩焼きも初めて、生きた白魚の踊り食い、翌日彼の叔父さんがご馳走してくれた鞆の浦で食べた「おこぜのから揚げ」。山国の育ちの私にとっては初物尽くしである。

大学時代はK君と湯出原君と無為の長い時間といえるが酒を飲んで騒いでいた。ヒートアップすると阪神ファンのK君を広島ファンの湯出原君が包丁を持って追いかけた。私は二人を追いかけ仲裁に入った。冬の日で地面は凍っていた。今では望めないノー天気な時間だった。東北出身の私には、プロ野球でヒートアップする二人のことは理解できなかった。

彼は大阪の豊中のマンションに住んでいた。2,3度泊めてもらったこともある。京都會津会主催の法要の為、京都に行ったときに大阪の居酒屋で短い時間を共にしたが、長い話は出来なかった。

大坂と会津と離れていたが近況を語る彼の話の中心は子供のことだった。CDを出すほどにミュージシャンとして優秀なのだが、慶応大学に入ったと喜んでいた彼の言葉が忘れられない。

これを書いてる最中にK君からメールが入った。

「私、岩澤君と3人で愚行の限りを尽くしました。・・・中略。息子さんと話して涙が止まらなくなりました。あの時代がもぎ取られた思いです。出血しています。湯出原のバカ!!」

人生の終盤にかかっている私たち、あの頃の愚行の反省会を3人で開きたかったなあ。

I君から:「彼はあまり学校に来ませんでしたが瓢瓢とした感じでした。福山の出身で2022年夏の甲子園に出場し彼の出身高校が彼を思い出させました。」・・・・彼の母校盈進高等学校が甲子園に出たことを彼は知らなかった。そういえばそれが彼との最後の会話だった。去年は話したんだ。甲子園はとうに終わって1.2か月後だったか。

K君より:「誰にも誰からもいい奴と思われていた湯出原君のことを思い出します。残された友人として、僕らが悔いのない暮らしを送ることが彼への手向けとなると思います。」

KM君:「40年以上前の思い出が昨日のように感じます。私たちがこれから力強く生きることが湯出原さんの供養になると思います。」

Iさん:「口数が少なく、恥ずかしそうにちょっとうつむき加減に話す湯出原くんの姿思い出します。5年ほど前年次稲門会の案内状送ってみたけど返信がなかった。」・・・湯出原君・私とIさん(クラスのマドンナ)とピクニックに行く約束をした。歓喜のあまり前日二人で痛飲し、翌日湯出原君は二日酔いで起き上がれず。Iさんの用意した心のこもった3人分の弁当(サンドイッチだったか?)はどこへ行ったのか思い出せない?待ち合わせ場所の新宿紀伊国屋前までIさんを迎えに行ったことは記憶にあるが、ピクニックに行けなかったことだけは確かだ。

3人には別な思い出がある。五木寛之の「青春の門」に出てくる「ランブル」という喫茶店に行った。入口に黒板が置かれていてリクエストするとそのクラシック曲が流れる。Iさんは「G線上のアリア」と書いた。私は「ジー線上のマリアって何?」田舎出の私にミュージックの素養はない。湯出原君は何気なくお嬢様学校出身のIさんと話しを合わせていた。ちんぷんかんの私は会話にはいれない。帰る時に気が付いたのだが座った席のカーテンに穴が5つほどできていた。私がたばこの火で明けた穴である。故意にではなくたばこの本数が多く、口にくわえてない時間右手でカーテンに接触していたようだ。

何気なく料金を払って店を出た。バッハの「ゲー線上のアリア」と気が付いたのはずーと後のことである。「らんぶる」も廃業したと新聞記事で見た。歌声喫茶やクラシック喫茶というものがたくさんあった時代の話だ。歌声喫茶では新宿にあった「ともしび」などが有名であった。

 

(文責:岩澤信千代)