🗓 2023年10月21日
吉海 直人
秋の七草の一つに数えられている「女郎花」ですが、最大の特徴は花の匂いが臭いことです。中国では「敗醤」と呼ばれていますが、これは腐敗した醤油のような匂いがすることからの命名でした。古代の人々はこの嫌な匂いが気にならなかったのでしょうか。あるいはそれ以上に薬草として尊重されていたのかもしれません。
花そのものは黄色い粟状の塊りですね。遠くから見ている分にはまったく問題ありません。そのためでしょうか、前栽に植える花ではなく野に自生する花でした。ただし『万葉集』に14首も詠まれており、秋の七草ということもあって、よく知られていた花だったことは間違いありません。
面白いことに、『万葉集』には「女郎花」という漢字表記がまだ用いられていません。ただし「娘子部四」「娘部志」「姫部思」「佳人部為」「美人部師」などという仮名表記からは、やはり若い女性がイメージされていたことが察せられます。
また『万葉集』における歌い方の特徴として、「をみなへし」と「咲く」が結びついた歌が5首もあることがあげられます。その延長線上に、「をみなへし佐紀」と続く歌があげられます。どうやら「をみなへし」は、地名の「佐紀」を導く枕詞(掛詞的用法)としても機能していたことがわかります。
この「佐紀」は奈良市佐紀町(平城京の北部)のことですが、ひょっとしたら「をみなへし」の名所(歌枕)だったのかもしれません。ただしそれは植物の事情というより言語遊戯に適う地名だったからでした。
『万葉集』の中で気になるのは、
です。この「匂ふ」は嗅覚ではなく視覚なのでしょうか。もしこれが嗅覚なら、そんなに高く評価できないと思わずにはいられません。
平安時代になっても「をみなへし」の人気は衰えておらず、『古今集』20首・『後撰集』24首・『拾遺集』14首とたくさん詠まれています(『新撰万葉集』にも25例あります)。衰えていないどころか、ますます人気が出たといえそうです。そして『新撰万葉集』において、私たちがよく目にする「女郎花」表記が初めて使われました。それが『古今集』以下で広められていったのです。
こうした「女郎花」人気は、どうやら六歌仙の一人である遍昭が作り出したように思われます。というのも遍昭は有名な、
の作者であるばかりか、
という俳諧歌も詠じており、「女郎花」の擬人化に大きな役割を担っていたからです。
また布留今道は「僧正遍昭がもとに奈良へまかりける時に、男山にて女郎花を見てよめる」という詞書で、
と詠んでいます。ここでは「男山」(石清水八幡宮)と「女郎花」の「男女」の比較にユーモアがありますね。こういった歌では女郎花の花の美しさには触れず、あくまで言語遊戯的にとらえている点に特徴があります。なおこの布留今道の歌は、後に「女郎花塚伝説」を生む契機となっているようです。
ところで遍昭の歌は、仮名序に「嵯峨野にて馬より落ちて詠める」とあって、嵯峨野で落馬した際に詠んだとされています。要するに嵯峨野の女郎花を詠んでいるのです。どうして嵯峨野かというと、それは嵯峨野が平安京から見て西の方角にあったからにほかなりません。ということで藤原俊成も、
と詠んでいます。ここに「女郎花」は詠み込まれていませんが、嵯峨野を代表する秋の花といえば、「女郎花」以外には考えられません。ということで、平安朝における「女郎花」の名所は嵯峨野だったことがわかります。
ところが平安中期に至って、嵯峨野の「女郎花」を掘って貴族の前栽に植えることが流行してきました。既に『後撰集』では、野の花であったものが自邸の前栽に植えられる花に変容しつつあります。さらに『拾遺集』時代になると、「嵯峨に前栽掘りにまかせて」(161番詞書)とあって、「女郎花」の需要が増加したことで自邸の前栽に移し植えることが日常化しています。
こうして野の花だった「女郎花」は、前栽の花として歌に詠じられるようになったのでした(やはり臭い匂いには一切言及されていません)。