🗓 2023年11月07日
函館市の郷土史家近江幸雄(おうみゆきお)氏の労作の書名である。あまり知られていないことが多く書かれているので一部紹介します。
まず最初に小池毅です。父求馬は会津藩御側医12名中の一人である。毅は弥生小学校を卒業して、のちに東京済生学舎の伝染病研究所に入り北里柴三郎の片腕となった。毅がいなければ北里柴三郎の研究成果はなかったくらいの研究者であった。不幸にも明治31年ペスト菌に罹り、24歳で亡くなった。存命していたら野口英世を凌駕していたかもしれない人材であった。
次に梶原平馬である。平馬は斗南移封後、青森県の庶務課長に任命されたが、たった2か月で退職してしまう。斗南藩の出世頭札幌本道建築掛雑賀孫六郎(妻あさは簗瀬三左衛門の娘・新島八重の親友)の勧めにより函館に渡り、妻貞(水野貞子)は家塾を営む。ウイキぺデアでは明治10年頃東京で水野貞と出会ったと書いてある。函館に十余年間安住したが、平馬は女郎屋の受付をしていたとか噂があるが、生業は全く不明である。その後根室に移り妻貞子は教育者として名を成し、平馬は文具店の主人となった。ウイキぺデイアでは明治16年頃は梶原景雄と名乗り県職員をしていたと書いてある。昭和61年(63年?)頃、根室西浜の耕雲寺で墓が発見された。平馬は戊辰戦争の時には一貫して主戦派であった。会津藩を亡国に転落させた責任をずっと抱き続けたのだろう。山川浩が会津人の窮乏と共に歩んだ人生(会津出身の貧乏学生をいつも寄宿させていた)とは全く別の行動をとった。ちなみに同書に「上大工町(末広町)に住んだ人々」という項目があり、」雑賀重村を中心に旧会津藩家老簗瀬・一ノ瀬(雑賀の実家)の家族が肩を寄せ合って暮らしていた。付近には梶原平馬も住んでいて、往来があったらしい。簗瀬三左衛門の長女キサ(アサの姉)は梶原平馬の養父の妻であった。また雑賀は星暁村の弟子で絵がうまかった。詳細は割愛するが明治13年(1990年)函館高龍寺に「傷心悲目」の碑を建立し、45歳で亡くなった。
※新島八重と幼馴染日向ユキの運命的な出会いの伏線があった。
「明治5年(1872年)春函館開拓使大主典雑賀重村の役宅に小主典内藤兼備(薩摩出身)が折にふれ訪ねると、二人の談笑する声が家中に響いた。…ところで内藤の訪問には別な目的があった。それは、病弱な雑賀夫妻の面倒を見るため、斗南から来た日向ユキを妻にしたいとの熱い思いからであった。」明治20年、新島襄と八重が北海道に行ったときに新島襄が密出国した函館を訪問した。その時に八重は雑賀アサと出会い、日向ユキの札幌の住所、聞き訪れた。私が「不一」を書いた時に雑賀アサと日向ユキがつながらかったのだが、夫同士が北海道開拓使の同僚だったのである。ちなみに雑賀アサの姉つやは家老内藤信節に嫁いでいる。
※日下義雄と新島襄
日下義雄は旧姓名を石田五助(弟石田和助は飯盛山で自刃)といい会津遊撃隊に属し、諏訪常吉の下、五稜郭にこもり奮戦した。のちに高官井上馨に優遇され、渡米すること二度米国で新島襄と歓談していた。日下は三井財閥の大番頭益田孝と親しく「京都守護職始末」を贈呈した。益田は、佐渡出身で函館奉行に勤務し、のちに渡米し実業界で活躍した。こちらも函館つながりである。
近江氏は函館の郷土史家であるが、私にとっては新発見のものが多く、とても参考になった。
(文責:岩澤信千代)