🗓 2024年09月21日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

戦前はたいていの小学校に、薪を背負って読書する二宮金次郎像がありました。会津若松にもありましたよね。そこでいきなり質問です。みなさんの記憶にある金次郎像は、銅像でしたか石像でしたか。それともコンクリート製でしたか。何故こんなことを尋ねるかというと、銅製の金次郎は戦時中の金属供出によって、その大半が失われてしまったからです。そのためよく見かけた石像と答える人が多いかと思います。もちろん戦後になって改鋳されたことで、多くの小学校に銅像が戻ってきました。そのためもあって二宮金次郎像は、日本で一番多い銅像とされています。
 では銅像と石像では、どちらが古いのでしょうか。なにしろ銅像は戦後に鋳直されたものが多くなったので、必然的に石像の方が古いと思っている人も少なくないようです。調べてみたところ、小学校に設置された金次郎像でもっとも古いとされているのは、愛知県豊橋市の前芝小学校に大正13年に設置されたものでした(藤原利平作)。これはコンクリート像だったことで、供出を免れたのです。この像の特徴は、背中に背負っているのが薪ではなく魚籠になっていることです。それは前芝小学校が海岸近くにあったからだとされています。
 ということで古いのは銅像でも石像でもなく、一番新しそうに思えたコンクリート製の金次郎像でした。もちろん銅製の像は、それよりもっと前に富山県高岡市で造られていました。一説によると明治43年に岡崎雪聲氏によって製作され、それをご覧になった明治天皇がたいそう気に入られたとのことです。翌明治44年には、『尋常小学校唱歌第二学年用』に「手本は二宮金次郎」という歌も掲載されています。
 その金次郎(尊徳)が学校教育に導入されたの明治37年の尋常小学修身書でした。そこで孝行・勤勉・学問・自営という四つの徳目を代表する人物として描かれています。それが契機となって、昭和3年頃には銅製の金次郎が制作され、以後全国の小学校から注文が殺到したとのことです。その高岡市で最初に金次郎像を手掛けたのは、平和合金の藤田太四郎さんとされています(鋳型は荒井秀山作)。ここで質問です。金次郎が背負っているのは薪でしょうか柴でしょうか。
 猪瀬直樹氏の本のタイトルが『二宮金次郎はなぜ薪を背負っているのか?』(文春文庫・平成19年)となっていることもあって、多くの人が勘違いしているようですが、どうやら子供の金次郎にふさわしいのは薪ではなく柴だとされています。実は秀山の像は、蝋型鋳造で柴の一本一本まで繊細に表現しています。他の業者のものではそれが表現できず、だから薪と見なされるようになったのかもしれません。こうして金次郎像は昭和10年を過ぎてもまだ売れ続けました。この大ヒットにより、高岡市は「銅像の町」と称されるようになりました。
 ところで柴を背負って読書するという構図の原型探しも行われています。金次郎の挿絵第一号は、金次郎の弟子であった富田高慶著『報徳記』に、「採薪の往返にも大学の書を懐にして途中読みながら之を誦し少しも怠らず」とあるのを参考にして、幸田露伴著『二宮尊徳翁』(明治24年)の中に「負薪読書」の挿絵が描かれたのが最初のようです。ただし金次郎が実際に薪を背負いつつ本を読んで歩いていたという記録は見あたらないので、これは富田の創作と考えられます。
 さらにその構図の元となった絵について、井上章一氏は『ノスタルジック・アイドル二宮金次郎』(新宿書房・平成元年)の中で、イギリスの宗教家ジョン・バンヤン著『天路歴程』の挿絵をあげています。これは主人公のクリスチャンが背に荷物(薪ではありません)を背負い、手に一冊の本を持って歩いているものなので、確かに構図は似ています。
 それに対して岩井茂樹氏著『日本人の肖像二宮金次郎』(角川学芸出版・平成22年)では、中国の故事を描いた「朱買臣図」が元になっているという説を提起されています。これは幸田露伴の本の挿絵を描いたのが狩野派の絵師・小林永興であったので、江戸狩野派が描いていたものの中に原画を求めたことから浮上したものです。こちらは薪ではなく柴を束ねた棒をかついで本を読んでいる図なので、その点が幸田露伴の挿絵に近いことになります。どちらが正しいのかはともかく、研究はここまで深められていました。
 なお最近では、子供の働く姿は奨励できない、歩きながら本を読むのは危険など、戦前と価値観が大きく異なったこともあって、小学校から二宮金次郎像が姿を消しつつあるそうです。そのため報徳二宮神社及び報徳博物館(神奈川県)では、不要になった二宮金次郎像を回収しているとのことです。