🗓 2024年09月14日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

滋賀県と岐阜県にまたがっている伊吹山山麓には、広大な薬草園があります。中でも伊吹薬草の里文化センターは、図書室・薬草風呂などが併設された複合施設で、約二百種類の薬草・薬木が栽培されていることで知られています。
 伊吹山山麓が古くから薬草の宝庫だったことは、平安時代の『延喜式』(延喜五年成立)という法律の本を見ればわかります。そこに宮廷に献上された薬草の名称や数量が記載されているのですが、そのトップが近江と美濃(伊吹山の所在地)となっているからです。もっとも薬草名の中に、「艾」や「蓬」の名は見られません。この二つは薬草ではありますが、日本全土に生えている雑草に近いものだったからです。ただし「熟艾」(やきくさ)という名で典薬寮のところに記述されています。
 もう一つ、伊吹山の歴史を語るために、忘れてはならないポイントがあります。それは安土城を築いた織田信長の存在です。なんと信長は、ポルトガルの宣教師(イエズス会)の要望に応じて、伊吹山に約五十町歩(東京ドームのおよそ11個分)もの土地を与え、そこに広大な薬草園を開かせました。
 宣教師のフランシスコ・カブラルは、信長に「人々の病を治すには薬が必要です。そのためには薬草栽培が不可欠です」と進言しました。そこで信長は、伊吹山に薬草園の開設を許可したのです。当時、宣教師によってヨーロッパから持ち込まれた薬草は、約三千種にも及ぶといわれています。そういった外来の薬草が伊吹山で大々的に栽培されようとしていのです。
 この栽培が続いていれば、伊吹山は日本一の薬草園になっていたことでしょう。ところがご承知のように、信長は明智光秀に打たれてしまいました。それに続いて秀吉や家康によってキリスト教が禁止されたことで、薬草園は閉鎖・放置されてしまったのです。以後、薬草園は四百年の眠りにつきました。そのため薬草園をめぐる話は、後世に書かれた『切支丹宗門本朝実記』『切支丹根元記』『南蛮寺興廃記』といった文献に見られるものの、その所在地もわからなくなり、伝承として片付けられてしまいました。
 ところが最近になって、伊吹山周辺でヨーロッパにしかないはずの植物がいくつも発見されました。発見された植物には、場所に因んで「伊吹」という名がつけられています。それがイブキカモジグサ・イブキノエンドウ・イブキレイジンソウなど27種にも達しています。それについて牧野富太郎は、これが南蛮人宣教師によって持ち込まれたという仮説を提唱しました。かつて宣教師が植えた薬草が、すっと生き残ったものだったらどんなにかすごいことでしょう。ただしそのうちの何種かは、遺伝子検査によって在来種である可能性が高いとの報告もされており、必ずしも宣教師の植えた薬草だったとするまでには至っていません。
 その他、「伊吹」とは冠されていない「キバナノレンリンソウ」にしても、ヨーロッパ原産の雑草とされているので、伊吹近辺にのみ存する固有種と宣教師の深い関係は完全に否定されているわけではありません。当時の宣教師たちは布教の戦略として、訪れた地域には薬草を植えたでしょうから、伊吹以外で発見されたとしても、宣教師の足跡を考えてみる必要が残されています。みなさんはこういったキリスト教布教に伴う薬草の伝播に歴史のロマンを感じませんか。
 実は日本各地に見られる艾にしても品種があります。そのため伊吹という地名が冠された「イブキモグサ」にしても、宣教師がもたらした外来種の一つであり、一般の艾とは効能が異なっているという話もあります。これなど宣教師の伝承を、艾の販売に利用したものなのかもしれません。それはさておき、伊吹産の艾がお灸の材料として日本中に普及したことは間違いありません。
 伊吹山麓には、宣教師たちによって築かれた薬草園があったことは事実ですから、これからもその痕跡として新種の薬草が発見されることを願っています。