🗓 2024年09月17日

ネットを見て居たら、真珠湾攻撃での山本五十六と堀悌吉が出ていた。12月8日「トラトラ」がはっせられた。大本営発表「西太平洋にて戦闘状態に入れり」宣戦布告が届く1時間前だった。「リメンバーパールハーバー」当時のアメリカの世論は戦争反対であった。ところがこの宣戦布告が遅かったために「だまし討ちにあった」ということで世論は戦争やむなしとなった。

この航空機による攻撃に米国は航空戦が戦いの中心になると判断し、航空機の大増産を行った。日本が真珠湾攻撃に投入した350機よりはるかな大量に航空機を作った。

アメリカに行って勉強をしてきた山本五十六は「1.2年は暴れることができる」と言っていたが、物量に劣る日本軍はそれ以上に戦えないのを知っていた。このハワイとミッドウエイー海戦で致命的な南雲中将の判断ミスが活躍した。不幸にも南雲という凡庸な指揮官が日本にいた。尚且つミッドウエイ―では日本の作戦が一週間前に暗号が解読されていた。ニミッツ率いる米国艦隊は待ち伏せをしていた。3000人の日本人将兵の命が失われた。

ミッドウエイ―海戦では空母が4艘撃沈されたが、大本営発表は2艘撃沈だ。それからガダルカナル玉粋。帝国海軍壊滅へとつながっていく。南雲中将は自決しようとしたがそれを止める山本五十六の書簡が残る。真珠湾攻撃でも追撃して空母を破壊いておけば戦局はだいぶ違った。

ガダルカナルでは20000人戦死、その内15000人が餓死だそうだ。ラバウルからブーゲンビルそれからラバウル島に視察に行く予定だった。しかし米軍にすでに暗号解読されていた。ブーゲンビルに16機の米軍機が待ち伏せしていて撃墜された。五十六59歳。高野五十六が名跡を継いだ長岡藩家老山本帯刀は会津の救援に来て飯寺の河原で斬首された。江田島の海軍兵学校を首席で卒業した堀悌吉は海軍を追われたために昭和34年まで生きながらえた。しかし、海軍に残った山本五十六との友情・親愛の情は終始変わらないものだった。山本五十六の留守家族を見守った。

(文責:岩澤信千代)