🗓 2024年11月30日

吉海 直人

三十一文字の和歌に曲を付けたもので、一番有名な歌は「君が代」(国歌)でしょう。他にこれといってよく知られているものは見当たりません。唯一ではありませんが、「平城山」の歌詞も三十一文字でした。ただしこれは古歌ではなく、北見志保子の短歌二首に平井康三郎が曲を付けたものです。まずその短歌をあげておきましょう。
  人恋ふはかなしきものと平城山にもとほりきつつ堪へがたかりき
  いにしへもつまに(を)恋ひつつ越えしとふ平城山のみちに涙おとしぬ
 ところでみなさんは、作者である北身志保子をご存じでしょうか。本名は川島朝野で、明治18年に高知県幡多郡宿毛村はたぐんすくもむら(現在の宿毛市)で生まれています。上京後、同郷の歌人で経済学者の橋田東聲と恋愛し、大正2年に同居(大正6年に婚姻届提出)しています。ところが大正9年、東聲の弟子だった慶応大学生・濱忠次郎を知り、二人は惹かれあうようになったのです。それを知った濱家では、急いで忠次郎をフランスに留学させることで、二人の仲を断ち切らせました。
 しかし志保子は大正11年に東聲と協議離婚します。そして大正14年に忠次郎が帰国すると、すぐに同棲を始めます(婚姻届は昭和5年)。志保子は忠次郎よりなんと12歳も年上でした。そこで戸籍係に頼み込んで、出生した明治18年に筆を入れて、明治28に書き変えてもらったというエピソードが残っています。昔はそんなことができたのですね。
 では肝心のこの歌はいつ詠まれたのでしょうか。それがはっきりしておらず、大正9年とするものもあれば、昭和9年としているものもあります。大正9年だと、また離婚が成立していないので、忠次郎への秘められた恋心を吐露した歌になります。それが昭和9年だと、すでに忠次郎と再婚しているので、もはや現実的な悲恋としては味わえないことになります。
 できればこの歌の背景に、秘められた恋を読み取りたいという願望で、大正9年説が積極的に選び取られているのではないでしょうか。ただしこれが大正9年に詠まれたものなら、昭和3年に刊行された第一歌集『月光』に掲載されていてもよさそうに思います。ところがこれになく、昭和25年に刊行された『花のかげ』に収められている点、昭和9年の作とした方が合理的かもしれません。
 それはさておき、この歌は昭和10年にやはり同郷の平井康三郎(「とんぼのめがね」が有名)が曲をつけたことで、たちまち有名になりました。ただし決してわかりやすい歌詞ではありません。というのも万葉調で詠まれているからです。まず「平城山」というタイトルですが、これを正しく「ならやま」と読める人は少ないようです。ついでながら、「平城山」という山を探しても見当たりません。これは実は山の名称ではなく、京都と大和を結ぶ道のことだからです。奈良時代までは西側の歌姫越えが使われ、平安時代には東の般若寺越えが使われていました。ややこしいことに、その二つとも「奈良坂」と呼ばれているのですが、ここは歌姫越えのことでよさそうです。
 歌詞を見ると、一番の「もとほり」という言葉がわかりにくいですね。これは「回る・廻る」で巡るという意味です。有名な「浜辺の歌」にも「夕べ浜辺をもとほれば」とありました。もっとも難解なのは、二番の「越えしとふ」です。小さいころ私は、これを「声慕う」と勘違いしていました。ところが正しくは「こえ」は「越え」で「し」は過去の助動詞だったのです。末尾の「とふ」は上代語で、「といふ」が縮まったもの(越えたという)でした。いわゆる「てふ」と同じようなものです。
 もう一つ、二番に「古へ」とあるのはいかがでしょうか。前述の『花のかげ』によると、「磐之媛命陵いわのひめのみことりょう」を見物して着想を得たとのことです。ですからこの「古へ」には、かつて磐之媛命が夫である仁徳天皇への恋心を詠じたという伝説が踏まえられていることになります。もっとも磐之媛命は嫉妬深い女性として有名なので、必ずしも北身志保子とぴったりとはあてはまりません。ただ磐之媛命が詠んだ、

君が行き長くなりぬ山たづね迎へか行かむ待ちにか待たむ(万葉集85番)
ありつつも君をば待たむうち靡く我が黒髪に霜の置くまで(同87番)

などには、待つ女の心情がよく表出されています。なお、歌にある「つま」は「妻」ではなく、「夫」のことを「つま」と呼んだものです。あくまで女性側の視点で見てください。案外難しい内容の歌です。ということで、「平城山」は男性よりも女性に歌ってほしい歌でした。