🗓 2025年12月29日

みなさんは土倉庄三郎という人をご存じだろうか。奈良県の人なら名前くらい聞いたことがあるはずである。彼は奈良では「日本林業の父」と称された山林王として知られている。その彼がキリスト教女子教育に関心を持ち、新島襄の同志社そして成瀬仁蔵の日本女子大学に多額の寄付をしている。

成瀬は明治11年に新設された梅花女学校の教師として勤めていた。その成瀬のいる梅花女学校に、土倉は娘三人を含む七人を入学させている。同時に土倉は同志社英学校に息子三人を入学させていた。これは明治14年のことである。ただ娘たちはあまりにも幼少だったので、寄宿舎の整っていなかった梅花では面倒見ることができず、同志社女学校に転校させている。

これによって土倉の息子と娘のほとんどが同志社に集まったことになる。寄宿生活をせざるをえない幼い子供たちにとっては、その方が都合がよかったかもしれない。ここで子供好きの新島夫妻が活躍することになる。それは土倉からの寄付が多額だったからではない。純粋に二人が子供好きだったからである。私が新島八重伝を執筆している際、土倉の子供たちの記事が目に入った。それは土倉龍治郎が新島夫妻の思い出を次のように語っているものである。

明治十三年私は満十一歳にして同志社の幼年組の一員とせられたのでありました。其年の秋のある日なりしか、新島先生の御宅より、次の土曜日に亀さんを連れて来いとの御沙汰を頂戴したのであります。待ちあぐんだ其日の朝、女学校に廻りてパミリー女教師に預けられて居った六歳の弟亀三郎を伴ふて先生の御宅に参上したのは、今より五十二年前の事でありました。御待ち下さった奥様は弟を抱きあげんばかりにして先生の御書斎におつれ下さったのであります。先生は何か書き物をして居られたと記憶する。お菓子を戴いて居ると先生仰出らるには、「京極に象が来て居るそうだから叔母様につれて行って貰って見てお出で」と。之が其時に撮って頂いた写真なのであります。写真中の私のはいて居る下駄は其時に買って戴いたものであります。頭もかって頂いた様に記憶して居ります。

(『追悼集Ⅵ』395頁)

「叔母様」というのはもちろん八重のことである。八重は龍治郎と亀三郎を象見物に連れて行った。その時の記念に写真も撮影している。どうも八重は小さい子供にはやさしかったというか、甘かったようだ。

一方、女学校に入学した次女の政は成績優秀だったようで、卒業後は京都看病婦学校で教師を勤めた後、同志社女学校卒業生初のアメリカ留学生としてブリンマーカレッジでBAを取得している。帰国後、デントン先生の助手を務めていたが、外交官の内田康哉(外務大臣)と結婚した。
デントン先生は医師の川本恂蔵や佐伯理一郎に対して、「同志社女学校卒業生中より是非ぜひ配偶者を撰定せよ」と迫り、ついに土倉政の双子の妹(前者には大糸、後者には小糸)を娶らせている。

もう一つ忘れてはならないエピソードがある。それは死期を覚悟した新島が土倉庄三郎宛書簡(明治21年5月21日)の中で、

只心に残す所は妻之一事なり。小生なき後に当分はらふべきことは出来可申も、往々は覚束なく候間、同人貧困之時の用意を為し置候間、暮年に及び乞食とはなし度不存候、右に付貴殿に御願上度一事有之候、兼而御話有之候マッチとなるの樹木植付之事也。小生帰京之上貴殿に金三百円御預可申候間、小生をマッチ樹木植付之コンパネ―となし被下、二十年の後貴殿と同じく利益を分つ丈之御約束を願置き、家妻万一之用に供し置度候、

(『新島襄全集3』569頁)

云々と記している。妻思いの新島は、八重が老後に困らないようにと新島は金300円をマッチ棒になる木の植樹へ投資し、その運用を依頼している。

実はこの話には後日譚があった。それは『新島八重関連書簡集』(社史資料センター)を見ていた時、八番の土倉庄三郎宛書簡に目が留まった。というのも二伸の中に、

亡夫存命中私共の後々の為めとて金円少々御預り願置候処先日亡夫葬送の費用一時同志社より立換相願候分此度返却の場合に相成候に付方法も相立不申候早々右御預り願置候金円を以て返済いたし候事に決し候に付甚御手数の段御気の毒に御座候へども来る九月開校の節までに御戻し被下度奉願上候

亡夫存命中私共の後々の為めとて金円少々御預り願置候処先日亡夫葬送の費用一時同志社より立換相願候分此度返却の場合に相成候に付方法も相立不申候早々右御預り願置候金円を以て返済いたし候事に決し候に付甚御手数の段御気の毒に御座候へども来る九月開校の節までに御戻し被下度奉願上候