🗓 2021年02月25日

私が新島八重顕彰会の設立を思い立ったのは、曽祖父岩澤庄伍が八重と交流があったからである。曽祖父宛の手紙や掛け軸に賛を書いたものが我が家に遺っていたからである。八重に近づける一番近い立場だと思ったから、「不一・・・新島八重の遺したもの」を上梓した。
 八重は大河ドラマの主人公になる前はほとんど会津でも話題になる先人ではなかった。
 何故曽祖父が八重と交流することになったか、それは曽祖父の母が同志社神学校に学んだ兼子重光の姉だからである。すなわち、曽祖父庄伍は兼子重光の甥にあたる。だから八重が会津を訪れた時に建築中の公会堂などを案内したのである。そして、京都の八重にトウモロコシや茎たちの種を送ったのである。実際に八重と親しくした先祖を持つものは、会津に私以外にはいないだろうから使命感を持ち、「不一」を書き、顕彰会を立ち上げたのである。
 兼子重光は長年に亘り、若松教会の牧師として布教活動を行い、若松教会の黄金期を築いた。実は、第1回顕彰祭で音響を担当頂いた兼子光右こうすけ氏(アートマック)は兼子重光の本家にあたる。湯川村勝常にある重光のお墓は同じ墓域で兼子光右こうすけ家が今も管理している。
 兼子家は明治期に火事になっており、古いものはすべて消失してしまった。新島襄の写真入りの同志社神学校の卒業証書が奇跡的に遺った。昨年福島テレビで紹介されたが、当時の同志社の卒業証書は県内でも極めて希少なものであろう。明治の時代、遠い京都のしかもキリスト教の大学に進学することは及びもしなかったろうから。山本覚馬の縁でわずかに会津藩出身者のみが在学していた明治20年頃の話である。兼子重光は小学校の教員から自由民権運動に入り、拘禁され無罪を勝ち取ってから、京都の同志社に進んだ。私は一時、重光の伝記を書こうと思い立ったのだが、資料が集められないので断念した。
 昨日、ネットで突然本井康博先生の特別寄稿に巡り合った。
 是非、皆様にも読んでいただきたいとPDFを添付させていただいた。
 私の著書「不一・・・新島八重の遺したもの」からも引用されている。

(PDF:1.43MB)

(文責:岩澤信千代)