🗓 2021年07月07日

「恩愛の碑 除幕式並びに祝賀会」のパンフレットが手に入ったので公開します。

その中の「恩愛の碑建立までの歩み」を読み進んでいくと全て高見フサの口伝に行きつく。

横山大観の絵画の鑑定は親族が行っている、西郷隆盛の書の真贋の鑑定は西郷南洲顕彰館が行っている。横山大観は親族が落款を保持しているのでそれで鑑定が行える。南洲顕彰館では大学教授など研究家が鑑定している。全て確実な根拠を持ち鑑定を行っている。

さて史実は子孫が鑑定できるのであろうか。否である。自分の親の人生を私が答えることはできない。祖父は太平洋戦争末期硫黄島で玉砕したがその事績を知ることはできない。ただ出征前に遺言書を書いていたので、祖父の遺志とか人柄はわかる。

何らかの根拠がなくて史実と認定するのは無謀である。身内の証明は良しとしても何らかの根拠が必要であろう。

また、郷土史家土屋貞夫氏の「楢崎頼三と飯沼貞吉」という小冊子がある。それを見ると札幌市在住の好川之範氏の教示と注釈があるが飯沼貞吉は明治5年8月23日に工部省電信寮に入る。楢崎頼三は明治3年10月にフランス留学を命ぜられ横浜を出発。同6年パリ滞在中に病死とある。また白虎隊の会発行の「下関支部のしおり」を見ると楢崎頼三の説明文に「明治元年(1868年9月に東京まで諸藩の降兵460余人の護送を命じられる。(ここで貞吉と出会いがあったと考えられる。)同12月山口帰着。(この時貞吉を連れて小杉に帰る)

このかっこ書きが問題なのである。前にも掲載した資料で明白なのであるが、猪苗代謹慎者名簿に時衛・貞吉の名前があり、護国寺謹慎者名簿にも明治2年霜月まで貞吉は東京護国寺にいたのである。猪苗代から護国寺まで貞吉・時衛親子は捕虜だったのである。この期間に楢崎頼三と飯沼貞吉を結びつけるのはかなりの無理があるのである。尚且つ翌3年10月に頼三はパリに向かった。とても貞吉を長州まで連れて帰り、養育する時系列を導き出すのは困難なのである。まして2年間貞吉の面倒を見たというのは完全に無理な話なのである。

つまり口伝で史実を構成することは無理があるのである。

(文責:岩澤信千代)