🗓 2022年07月04日
私が学生のころ確かに「安部球場」はあった。時間を持て余したときに球場のスタンドに座り、選手の練習姿を何度も見た。太平洋戦争前、悲痛の早慶戦がこの球場で行われた。数年前訪れた時にはその球場は大学総合図書館になっていた。安部球場となぜ命名されたか。初代野球部長の安部磯雄の名前をとって命名されたことは学生時代から知ってはいた。
その安部磯雄が忽然と私の前に現れた。現在日経新聞連載中の「私の履歴書」の執筆者が安部磯雄の孫だった。筆者は有名な丸山ワクチンを開発した丸山博士の子供であり。ソニー・ミュージックエンタテイメント元社長の丸山茂雄氏である。
日本に初めて大学ができたのは慶應義塾大学であり、その8年後同志社大学ができ。その8年後早稲田大学ができた。従って早稲田創学時には同志社出身の教授が多くいた。福島県が生んだ偉人、イエール大学教授で歴史学者朝河貫一博士は八重の兄山本覚馬の娘であるみねが嫁いだ横井時雄(熊本・横井小楠の息子)に早稲田で学びクリスチャンになった。同志社出身で早稲田大学の経営に貢献した浮田和民を坪内逍遥は「早稲田の至宝」と呼んだ。早稲田草創期には同志社出身者が数多くいたのである。当然山本覚馬・新島襄・八重に直接学んだ生徒たちである。
顕彰祭を始めて、当初から京都府宇治市から参加している角田正衛さんがいる。京都に住んでいながら同志社校友会群馬県副支部長でもある。初回の顕彰祭の前日「奥野善彦先生を囲む会」にも参加した。「エール」の古関祐而が作曲した第一応援歌「紺碧の空」を肩を組んで歌った。早稲田の歌の歌詞はほとんど暗記しているという。
山本覚馬・八重・新島襄が残したDNAがこんなところに息づいているのかなとふと思った。丸山氏の履歴書は高校時代あまり勉強しなかったことを本日書き始めたところである。
(文責:岩澤信千代)