🗓 2023年07月17日
最近懇意の滝沢洋之氏の「吉田松陰の東北紀行」を読んでいる。吉田松陰が会津に来たことは知っていたが、詳細はこの本を読むまでは知らなかった。
江戸を発ったのは赤穂浪士の討ち入りの日の12月14日だという。東北旅行に行くのにわざわざ雪の多い季節に行くのか。尚且つ藩の許可状も取っていなかった。脱藩行為である。普通では考えられないことである。
しかし理由があった。親友(えばた五郎)が兄の仇を討つために盛岡に出発する日に合わせたのだ。友人の兄は藩医であったが、江戸で奸臣の罠にはまり牢獄で自ら毒杯を飲んで死んだ。
その敵討ちの大業が果たせるように、あえて赤穂浪士の討ち入りの日に定めたという。
この友人とは再び出会うことができたが兄の仇はとうに死んでいて仇討ちは出来なかった。別れがたく何日も旅程を共有した。
束松越えなど積雪1m以上もある峠を何度も越えて東北一周をした。松前で異国の船舶航行の状況を視察したかったのだが、北海道までは諸般の事情があり行けなかった。
文中で驚いたのだが、吉田松陰の自筆の書が会津藩関係者に残っているとのことである。斎藤弥九郎の塾で松陰は会津藩士井深蔵人と親しかった。会津を訪問したときに蔵人は亡くなっており、孫の茂松がつきっきりで会津藩士の訪問に追随した。そのお礼に残したものである。それは井深家にではなく東京高師・東京美術・東京音楽学校の校長を務めた高嶺秀夫の家に残されていた。秀夫の母親きの子が井深茂松の妹だったのである。
高名な会津藩医である馬島瑞園が書を所望したのを断ったのだが、さすがお世話になった井深茂松には残した。大日本地図を作成した伊能忠敬を井上ひさしは「4000万歩の男」と呼んだが著者が計算したところによると松陰は約330万歩踏破したことになるという。毎日9里(約36km)のペースを歩いた勘定になる。それも冬の雪道である。
いずれにしても、東北紀行を終えるにあたって松陰は会津に再び立ち寄った。3月中旬である。雪深い季節になんで東北を旅する?と私は思うのだが、そのど根性と健脚にはただただ敬服するしかない。ジャンパーやオーバーコートがない時代何を着ていたのか、ゴム長靴がない時代藁沓で難所を踏破したのか気になるところではある。大和魂はこうして補強されていたのだ。
(文責:岩澤信千代)