🗓 2023年11月08日
河原勝治は会津戦争の語り部である。父親河原善左衛門政良は国産奉行であり、会津藩では重きをなした。父・兄は戦死し、2男の勝治は生き残り、日本郵船の船長を務めた。戊辰戦争時は若年であったものの人づてに聞いた話など後世語り、いわゆる会津藩敗北の語り部となった。
今日、白虎隊記念館に行ったら昭和9年4月29日に行った講演「会津戦争所感」のコピーを頂いてきた。その中で気になった部分を紹介しよう。
「仙台に殿なし、会津に家老なし」梶原平馬と父親や伊藤左太夫などが米沢藩に恭順の意を表明するために行ったが「梶原さんは本当に飾り物、時々馬鹿なことを言われるのには冷や冷やした。」
「食い様がなくなって昔若党に使って居ったもので根室で女郎屋をしておる者を頼って来て、女郎屋の帳面付をやって居る。家老なるものがよくも落ちぶれたものだ。会津にああ云う馬鹿家老があって会津が潰れたのだろうといふて笑ったことがあります。」(別資料では根室で県職員をしていたとの記録もあり)
「会津に大内内蔵助の如き人物がなくても、土津様以来温御代々の祭りを絶つが如きことはならぬという云ふ考えを持つ家老があったならば、あんな戦いはせぬで済んだかもしれない。」
「野村佐兵衛も生きて居ったならば。あんな目に合わなかったろう。惜しい哉彼は慶應3年5月京都で病死して、守護職中の中心人物を失ってしまったことは残念であったということをその人(山川浩)は言われた。」
総じて10人以上いた会津藩家老に対しては辛口である。
「会津藩教育考」の名著を残した小川渉がいるが、彼も門閥出身の家老の無能さを描いている。要するに名門出を鼻にかけて他人を顧みず威張っているが。無能な人物が多いと「しぐれ草紙」に繰り返し述べられている。戊辰戦争で戦死した加判の列(家老・若年寄:藩の重要決定に署名する)は一ノ瀬要人・横山主税のみである。門閥出身の戦死者は少ない。司馬遼太郎は会津藩は封建主義の見本のようなことを言っているが、実情は高遠出身の連中の保身であった。藩主の身代わりになった神保修理・萱野権兵衛はともに高遠出身ではなかった。特に幕末は度重なる湾岸防備に駆り出され、財政は火の車であり農民に対する搾取も酷いものだった。
(文責:岩澤信千代)