🗓 2024年07月16日

会津藩は松平容保の嗣子容大(かたはる)を領主として下北の地に立藩を許されて斗南藩を成立させた。明治新政府は3万石と公表したが、実高は雑穀7000石であった。米は寒冷すぎて取れない。そこで会津藩士は刀を鍬に替え開墾に励んだ。いかんせん自然の厳しさには勝てない。夢と希望に満ちて移住した17000人の会津藩士たちは凄惨な目にあった。家老が豆腐のツケが払えず娘を借金のカタにおいて北海道に移住したことを「会津藩教育考」の著者小川渉は書き残した。

 一方の庄内藩はどうだったのか?。庄内藩に攻め込んだのは西郷隆盛と黒田清隆の薩摩の大将であった。江戸城攻落の理由が欲しかった西郷隆盛は、無頼の徒を江戸薩摩藩邸に集め、江戸市中を強盗・放火で蔓延させた。そしてこれ見よがしに薩摩藩邸に逃げ込ませた。そこで幕府より江戸市中の取り締まりを命じられていた庄内藩は薩摩藩邸を焼き討ちさせた。これを聞いた西郷隆盛はにんまりしたという。江戸城攻撃の口実が出来たからだろう。そのこともあり西郷隆盛は庄内藩は、逆によくやってくれたと評価したのではないか。

 庄内藩は領地替えのない藩であった。徳川四天王筆頭の酒井忠次の後裔だからだけではない。何度も領地替えの危機はあったが、酒田の富豪本間様が幕府や明治政府に5万両献金したりして免れていた。

 庄内藩には西郷隆盛を祭った南洲神社があり、西郷隆盛の話をまとめ、旧藩士に編纂させた「南洲遺稿集」もある。

 会津と長岡が戦ったのは長州の山縣有朋と土佐の岩村精一郎だった。京都でいじめられた山縣有朋は会津をひどく憎んだので厳罰を主張した。越後で会津藩にいじめられた怨念は消えなかった。愛する部下時山直八を失った。会津藩にやられた境地を「越の山風」に詠んだ。一方西郷隆盛は庄内藩に対して「武士が兜を脱いで降参したものを心配することはない。」と処分を軽くするよう明治政府首脳を説得した。庄内藩17万石を12万石に減らしただけだ。会津23万石を斗南3万石にしたのと大違いだ。会津藩は薩長同盟を成立させた秋月悌二郎を蝦夷地の代官に左遷した。有能な人材がいても西郷隆盛に心は届かなかった。山国根性で小禄の次男坊の出世をねたむ藩首脳の無能のせいである。西郷隆盛につながる人脈があれば庄内藩のようにうまく立ち回れたのではないか。

来年は、青森県むつ市においてコロナで延期になっていた戊辰155年の斗南会津会主催の献霊祭が行われる。八重と新島襄が精魂を込めた同志社大学創立150周年と重なる年になる。

(文責:岩澤信千代)