🗓 2021年04月03日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

これは有名な蕪村の俳句ですが、この句を鑑賞するためにはかなりの知識が必要です。そこで取り上げてみることにしました。まず菜の花について、2つのことに注意してください。1つは江戸時代において、京阪神では菜種油の生産が拡大したことで、「油菜」の栽培が盛んに行われていたこと。もう一つは、蕪村は菜の花が好きだったようで、この句以外に菜の花を詠んだ句が9句ほどあることです。それがこの句を鑑賞する時の最低の知識になります。
 その上で、この句はいつどこで詠まれたのでしょうか。それは蕪村の弟子高井几董きとうが編集した『続明烏』(安永5年刊)の中の「春興二十六句」に、この句が収められていることからわかります。蕪村の代表作の一つとされているこの句は、安永3年(1774年)3月23日に蕪村が六甲山地の摩耶山を訪れた際に詠まれたものでした。
 ここで少しだけ天文学の基礎知識を仕入れておきましょう。月が東から上り、日が西に沈む点に嘘はありません。毎月満月の前日あたり(月齢14日)だと、月が出てしばらくしてから日が沈むので、天気がよければ東の月と西の日を同時に見ることができます。
 もちろん逆に東から日が昇り、西に月が沈む光景もありえます。それについては柿本人麻呂が『万葉集』に、

ひんがしの野にかぎろひの立つ見えてかへりみすれば月かたぶきぬ(48番)

と読んでいましたね。ただしこの場合の月は有明の月、しかも三日月でなければ時間的に成り立ちません。要するに月の形を見れば、夕刻か早朝かは見分けられるのです。蕪村の句は夕刻なので、満月に近い月を想像してください。

そうなると23日の月では不可能になります。蕪村の詠んだ風景は、まったくの虚構なのでしょうか。これについても2つの見方があります。1つは蕪村が幼少期を過ごした淀川沿岸(大阪市都島区毛馬町)の菜の花畑とするもので、これは過去の心象風景だという解釈です。もう1つは、蕪村は摩耶山を何度か訪れているので、その日以前に見た光景を重ね合わせているとするものです。みなさんはどう解釈しますか。
 その上で、東西と日月の取り合わせを調べてみると、人麻呂歌以外に漢詩の世界が踏まえられていることがわかります。一般的に陶淵明の「雑詩其二」の、

白日は西阿に淪み、素月は東嶺に出づ。
遥遥たり万里の輝、蕩蕩たり空中の景。

という漢詩が指摘されていますが、中には李白の「古風五十九首」の中の

草緑に霜已に白く、日西に月復東

という漢詩を指摘する人もいます。それだけではなく、蕪村の句の前に、其角が、

稲妻やきのふは東けふは西(曠野)

と詠んでいるし、『山家鳥虫歌』(安永元年刊)にも、

月は東に昴は西に、いとし殿御は真中に

という丹後地方の歌謡があります。おそらく蕪村はそういったものを意識して詠んでいるのでしょう。そうなるとこの句に独創性は認められないことになります。

では蕪村の句に斬新さはないかというと、そんなことは決してありません。実は先行のものは、すべて日が沈むと月が出るという動きに注目しています。というのも、そこに時間や歳月の経過を象徴させているからです。となると月と日は必ずしも同時に存在してはいなかったことになります。
 それに対して蕪村は、あくまで西の日と東の月が同時に存在し、そして真ん中に菜の花という静的絵画的世界を捉えており、そこに蕪村らしさが表出しているといえそうです。だからこそ単純な風景と誤解していたわけです。やはり蕪村はただ者ではありません。