🗓 2021年04月10日
吉海 直人
芭蕉の句に「花の雲鐘は上野か浅草か」(続虚栗)とあるのはご存じですよね。これは貞享4年(1687年)のこと、当時44歳の芭蕉が住んでいた深川の芭蕉庵(隅田川沿い)でふと耳にした「鐘」について、あれは上野寛永寺時鐘堂の鐘の音だろうか、それとも浅草浅草寺弁天山鐘楼の鐘の音だろうか、と疑問を呈したものです。芭蕉の句にしては面白いですね。
実は芭蕉庵は、寛永寺と浅草寺のちょうど中間に位置していたので、この句を詠むことができたのでしょう(どちらからも3キロほどの距離です)。ただし芭蕉庵からは浅草寺の伽藍が見えていたとのことなので、その分、浅草寺の方がふさわしいかもしれません。
ところで初句の「花の雲」とは、実際の雲ではありません。満開の桜のかたまりを雲にたとえた比喩表現です。これによって季節は春だということがわかります。芭蕉は梅の句をたくさん詠んでいますが、これは数少ない桜の句の1つということになります。ここからのんびりした平和な雰囲気が漂ってきますね。折から「鐘」の音が聞こえてきました。視覚から聴覚へと見事に切り返されています。
「鐘」というのは、単なるお寺の鐘ではありません。この場合は「時の鐘」つまり時刻を知らせる鐘です。その場合、考えなくてはならないのは、それが朝の鐘なのか夕方の鐘なのかということです。春のアンニュイな感じとしては、夕暮れの方がふさわしいと思います。そう考えると、夕日が「花の雲」を赤く染めている光景が思い浮かんできます。
この句が有名になると、歌舞伎や長唄の世界に積極的に引用されるようになりました。助六の長唄に「鐘は上野か浅草に」とあるし、三社祭の中にもそのまま取り入れられています。中でも「宵は待ち(明の鐘)」がその代表例といえます。これは初心者が習う長唄の曲としてよく知られているものです。
昔の男女の恋愛は通い婚だったので、男は宵になると好きな女性のもとに行き、「明の鐘」がなると帰らなければなりませんでした。ただしこれは長唄ですから、内容は馴染みの吉原の遊女のところに通う話になっています。
その詞章には、
とあります。ここで注意したいのは「暁」です。その後に「別れの鶏」とありますが、古くから鶏は「暁」を告げる鳥とされてきました。その時刻ですが、平安時代は定時法で、午前3時のことを「暁」の始まりとしていました。午前3時を過ぎると翌日になります。だから男は帰らなければならなかったのです。
ところが江戸時代に不定時法が採用されたことで、四季によって時刻にずれが生じてしまいました。同じく旧暦でも、一日の時間は異なっていたのです。ですから「明の鐘」が鳴る「明け六つ」といっても、夏と冬では時差が生じていました。その場合、「明け六つ」は夜明けの30分前として計算されていたようです。もちろんまだ夜は明けきってはいませんが、すでに辺りは薄明るくはなっているはずです。真っ暗な平安時代の「後朝の別れ」の時刻よりずっと明るかったことになります。
最後にある「鐘は上野か浅草か」こそは、芭蕉の句のパクリですね。実は遊郭のあった吉原も、寛永寺と浅草寺の中間くらいに位置していたので、そのまま取り入れることができました。こうしてのどかな芭蕉の夕暮の句(暮の鐘)が、長唄では後朝の別れの怨み節(明の鐘)に見事に転換されているのです。これぞ江戸のパロディでしょうか。