🗓 2021年12月04日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

毎年12月になると、クリスマスと一緒に忠臣蔵の季節が訪れます。小さい頃に耳にしたのは「時は元禄十五年、師走半ばの十四日」という講談調のセリフでした。これを三波春夫が歌っていた「元禄名槍譜俵星玄蕃」で調べてみると、

時に元禄十五年十二月十四日、江戸の夜風をふるわせて響くは山鹿流儀の陣太鼓、しかも一打ち二打ち三流れ、思わずハッと立上り、耳を澄ませて太鼓を数え、「おう、正しく赤穂浪士の討ち入りじゃ」助太刀するは此の時ぞ、もしやその中に昼間別れたあのそば屋が居りはせぬか。

云々と出ていました。感動的な語りなので、一度聞いてみてください。

ご承知のように、これは大石内蔵助一行が吉良上野介の邸に討ち入りして、亡き主君浅野内匠頭の敵討ちをした忠臣蔵の名ゼリフの一つです(他に「遅かりし由良之助」もあります)。実際にあった事件ですが、当時は「赤穂事件」と称されていました。それがわずか1ヵ月後には、『傾城阿佐間曽我』の大詰めに討ち入りの趣向が挿入されて上演されています。同じ仇討ちの曽我物は利用しやすかったのでしょう。
 たまたま討ち入った赤穂浪士が47人だったことから、「いろは」に置き換えられるのにも時間はかかりませんでした。『忠臣いろは軍記』・『粧武者いろは合戦』・『忠臣いろは夜討』などがその例です。たちまちのうちに浄瑠璃や歌舞伎に取り入れられ、大ヒットしました。
 もう一つ「蔵」についても、元文5年(1740年)に『豊年永代蔵』が上演されており、「いろは」と「蔵」が結びつくのは時間の問題でした。そして遂に義太夫浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が誕生したのです。「いろは」を使わず「仮名手本」と言い換えた点は見事ですね。作者は竹田出雲・三好松洛・並木千柳の合作です。初演は事件から45五年後の寛延元年(1748年)のことでした。歌舞伎でも同年に上演されています。この作品が大ヒットしたことによって、「赤穂事件」は「忠臣蔵」と呼ばれるようになったのです。
 もちろん幕府を刺激しないように、徳川将軍を室町将軍に遡らせ、登場人物の名前なども巧妙にパロディ化されています。たとえば、大石内蔵助は大星由良之助という名前になっています。なお「忠臣蔵」の「蔵」に、内蔵助が響いているという見方もあります。浅野内匠頭は塩冶判官高定ですが、これは赤穂が塩の名産地だったことからの命名です。
 忠臣蔵の人気は300年経った現在まで衰えず、毎年この時期になるとどこかのテレビ局で新旧問わず忠臣蔵のドラマが放映されています。この事件は外国人も関心を持ったらしく、1870年にはミットフォードが「47RONIN」というタイトルで赤穂事件を英訳しています。その5年後には、F.V.ディキンズが『仮名手本忠臣蔵』を全訳しており、日本文化の特徴を表すものとして外国に知られています。
 なお元禄十五年は西暦では1702年ですが、日本の旧暦と新暦では一ヶ月程ずれますから、12月だけは年を越して1703年の1月にずれ込んでしまいます。ということで、討ち入りが実行されたのは1703年1月30日のことでした。ただし新暦になっても高輪にある泉岳寺(赤穂義士の墓所)では、毎年12月14日に盛大に義士追善供養が行われています。
 もう一つ細かなことで恐縮ですが、吉良邸に討ち入ったのは「寅之上刻」とされています。現在でいうと午前3時過ぎです。旧暦では午前3時を過ぎると翌日になるので、正しくは15日未明ということになります。時々「討ち入りは12月15日」となっているのはそのためなのです。旧暦というのは案外面倒なものです。