🗓 2024年01月13日
吉海 直人
みなさんは「灸」の歴史をご存じですか。「灸」は「鍼」(針)とともに中国から伝わった万病に効く治療法です。中国最古の『黄帝内経』(前漢成立)に既に記載されており、それがいつ日本に伝わったのかはっきりしませんが、古く欽明天皇23年(562年)に呉人・智聡が『明堂図』という鍼灸の書をもたらしたという記録が、『新撰姓氏録』の「和薬使主」にあります(ただし『日本書紀』には出ていません)。
下って『大宝令』(大宝元年)や、それを改訂した『養老令』(天平宝字元年)の医疾令には、針博士の制度が設けられています。一方の「灸」は民間療法として広がったようで、同じく軍防令に兵士は熟艾(乾燥蓬)一斤を持参すると書かれています。これは兵士自身で灸をすえるのでしょう。
その灸に用いる艾の原料は蓬ですが、これは広く日本国内に分布しており、薬草というより雑草の類とも見られていました。その最古の例は『万葉集』の大伴家持の長歌にある、
です。これは蓬の香りが邪気を祓うと信じられていたことで、端午の節句に用いられている例(『枕草子』も同様)で、灸とはまったく関わりません。また『大和物語』・『源氏物語』などに見られる蓬は、生い茂る雑草の一種として描かれています。これなど没落貴族の美しい姫君が荒れ果てた邸に住んでいるという設定の象徴なので、やはり「灸」とは無縁でした。
では「艾」はというと、単独では平安朝の文学には登場していません。そのかわり「させ(し)もぐさ」という表現(歌語)で和歌に詠まれています。ただし『万葉集』はもとより、『古今集』などの勅撰集にも見られません。『古今六帖』(天禄頃成立)の「雑の草」項に、
契りけん心からこそさしま草おのが思ひに燃えわたりけれ(3587番)
なほざりに伊吹の山のさしも草さしも思はぬことにやはあらぬ(3588番)
下野やしめつの原のさしも草おのが思ひに身をや焼くらむ(3589番)
の4首が掲載されているのが初出です。このうちの3首は、3句以下の「さしも草おのが思ひに」が「焦がす」「燃え」「焼く」と縁語になっており、類型的な詠みぶりといえます。
そのうちの2首に「伊吹の山の」が詠まれており、もう1首に「下野やしめつの原の」であることから、下野産地説と美濃・近江産地説が浮上しています。最初に艾の産地を「下野」としたのは『能因歌枕』であり、「此山(伊吹山)は美濃と近江の境なる山にはあらず、下野なり」と断じています。顕昭も「此の伊吹山は美濃と近江の境なる山には非ず。下野国の伊吹山也」(『袖中抄』)と下野説を主張しています。歌に「下野やしめつの原」とあるのですから、それも一理あります。ただしもともと美濃・近江説が一般的だったのに対して、下野説は新しく提示されたものでした。しかも「下野」と「伊吹」の関連を示す資料は見当たりません。それもあって『内裏名所百首』や『八雲御抄』では、従来通り「伊吹」を近江(滋賀)の名所としており、二説は常に並立していたことがわかります。
前述のように、平安中期において艾の産地を特定する資料は存在しません。参考として『延喜式』(延喜五年成立)を見ると、宮廷に献上された薬草の名称や数量が記載されていますが、トップは近江と美濃であり、下野は下位に位置していました。もっとも、薬草名の中に艾や蓬の名は見られないことから、当時、艾は貴重な薬草とは認識されていなかったこと、だからこそ産地も特定されていなかったことがうかがえます。どうやらもぐさの産地はどこか、「伊吹」はどこがふさわしいかの議論は、結論など出せない問題だったのです。むしろ江戸時代になって、下野と近江による艾の名産地争いが生じたのではないでしょうか。
それよりも注目したいのは、「伊吹」という地名が言語遊戯に適しているということです。『古今六帖』の4首のうち、最後に残った「なほざりの」歌は、「伊吹の山のさしも草」が「さしも」を導く序詞として機能しており、さらに「伊吹」は「言ふ」の掛詞になっています。この複雑な技法こそが実方の、
に継承されていたのです。しかも実方は、
という類歌も詠んでおり、実方と「さしも草」の縁は深いことがわかります。
ついでながら織田隆三氏「モグサの研究(2)―伊吹山考―」(全日本鍼灸学会雑誌35―1・昭和60年6月)には、清少納言の歌の詞書に「下野へくだるといひける人に」とあって、
が詠まれていることを根拠に、「論議の余地はない」(下野が正しい)とされています。しかしながら三巻本『枕草子』の詞書は「まことにや、やがてはくだる」となっているので、この詞書は根拠(決め手)にならないことを付け加えておきます。
百人一首にお灸の歌が撰ばれているのは変だと思われるかもしれませんが、これはお灸が燃えるものであることがポイントです。しかも『万葉集』にはなかった掛詞が使われることで、「さしもぐさ」は歌語として昇華したのです。さらにここで視点を変えて、もし百人一首に撰ばれている歌が、その人の人生を象徴するのにふさわしいものだとすると、この「伊吹」は実方が左遷されて亡くなった陸奥の方がふさわしいことになります。もちろんこれも後付けの解釈ですが。