🗓 2024年01月20日
吉海 直人
新元号「令和」については『暮らしの古典歳時記』(角川選書)に掲載しましたが、それだけではまだ不十分なので、もう少し詳しく解説してみます。というのも、出典となった『万葉集』の「梅花の歌」の序は、実は大きな括りの中に含まれるものだったからです。そもそも文学というのは、一部を切り取った時の解釈と、作品全体から見た解釈では大きく異なる場合があります。ですからここも巨視的に見ておく必要があります。一面的に見ない(権力に迎合しない)のが国文学の鉄則です。
まず『万葉集』巻五の目録(目次)を見ると、「大宰帥大伴旅人卿の宅にして宴する梅花の歌三十二首并せて序」に続いて、「故郷を思ふ歌二首」「後に梅花の歌に追和する四首」が付随しており、この3項目で1つのまとまりになっていることがわかります。それだけではありません。さらに続いて、「松浦川に遊ぶ贈答歌二首并せて序」「蓬客等の更に贈る歌三首」「娘等が更に報ふる歌三首」「帥大伴卿の追和する歌三首」が続いています。内容は梅花の歌とまったく別なので、一見すると無関係のようにも思えますが、どうやらこれだけのものが一括され、大宰府にいる大伴旅人から都にいる吉田連宜(帰化人・医師)に私信を添えて送り届けられているようです。
そのことは、これに続いて旅人に応えた宜の返歌が、「吉田連宜、梅花の歌に和ふる一首」「吉田連宜、松浦の仙媛に和ふる一首」「吉田連宜、君を思ふこと未だ尽きず、重ねて題す歌二首」と続いていることからわかります。ということで「令和」を総合的に考えるためには、該当する序の部分だけでなくこれだけのものを総合して考える必要があるのです。
そこでまず目にとまったのが、旅人の「故郷を思ふ歌」でした。もちろんこの「故郷」は旅人の生れ故郷という意味ではなく、平城京(都)のことを指しています。それと関連することが、宜の返書の中に、
と書かれています。これを現代語訳すると、
となります。なんとここで大宰府は、「辺城」(僻地)ととらえられているのです。
宜の返書にある「古旧を懐ひて」には、二年前に亡くなった旅人の妻(大伴郎女)に対する悲しみが暗示されています。どうやら旅人からの私信には、梅花の歌には表出されていない私的な気持ち(本心)が吐露されていたようです。そこに脚色もあったでしょうが、少なくとも陽気な梅花の宴とは異なる旅人の悲痛な望郷の念が綴られていたことが、この宜の返書から察せられます。要するに梅花の歌も序も表層的なものだったのです。
それに加えて、まだ考えるべきことがあります。それは旅人の文学的虚構ということです。そもそもこの梅花の宴は、満開の梅の元で催されたように見えますが、旅人は、
と散る花を詠じています(落梅の篇)。決してこれから咲く花を詠じているわけではありません。さらにそれに続く大伴百代(大伴一族の一人)など、
と詠じており、散る花どころかまだ梅は咲いておらず、近くの大野山には雪が降っていると現実を暴露しています。もちろんこれは雪を白梅に見立てたレトリックとも考えられますが、陰暦正月13日では梅の満開時期としては早すぎます。そうなると、この宴会そのものが怪しくなってきます。すべては文学的虚構(題詠)だったかもしれないのです。
旅人が何故そんなことをしたのかといえば、それは私的な妻の死の悲しみでは説明できません。もっと大きな事件が都で起こっていることと無縁ではないと考えたくなります。まずこの梅花の歌宴の直前(天平元年)、旅人は都にいる藤原房前に桐の大和琴を贈っています(810番~812番)。何故旅人は唐突に房前に贈り物をしているのでしょうか。そこで歴史年表を繙いてみると、天平元年(729年)の2月に忌まわしい長屋王の変が勃発し、関係者が処罰されていることがわかりました。その長屋王と旅人は親しい間柄だったのです。もしこの時、軍事力を有する旅人が都にいたらどうなっていたのでしょうか。ひょっとすると旅人が帥に任ぜられたのは、長屋王排斥を目論む藤原氏の深慮遠謀だったのかもしれません。
遠い大宰府の地で長屋王の悲劇を聞き知った旅人は、一体何を思ったのでしょうか。こうなった以上、大伴一族に類が及ばないようにしたい、と思ったとしても不思議はありません。大和琴の贈与は、旅人に反抗心がないことを藤原氏に表明するために行われたとも考えられます。そういった都の大事件を背景にしつつ、大宰府では何事もなかったかのように、梅花の宴が表向きのどかに開催されていたと記録されているのです。
ここまで視野を拡げることで、ようやく「令和」の複雑さというか、表と裏の内実(現実と希望)がほの見えてくるのです。「令和」に込められた「めでたい・おだやか」な世の中なってほしいという願いには、こういった政治的背景が潜んでいたのです。